ジキル博士とハイド氏 (まんがで読破)
善と悪という人間の二面性について、鋭く切り込んだ一冊。
悪も善も、元々どちらも人の一部であり、その人を構成するものであり、人を人たらしめる大切な要素である。ジキル博士のように悪のみを(あるいは善のみを)切り離すことの、片方を下げずむことの、敵視することの危険性が、というか非実現性について考えさせられる1冊だった。結局のところ、善が悪を受け入れ(あるいは悪が善を受け入れ)、うまく折り合って生きていく必要がある。適度に中庸に、そして適当に。多くの人々は、それを当然のごとく受け入れているし、過去の人々も当然のごとくそれを受け入れてきた。
一方で、善か悪どちらかに真っ当に生きる人々がいる。ある意味で潔く、ジキル博士のように善のみで生きるのであれば、それこそ人間の模範ともいうべきものである。けれども同時にそうしたものの影では何か欲望というものが、それに対する憧れというのが、着々と育っていくと思うと、何かやり切れない気持ちになる。
ジキル博士に足りなかったものは、ハイドをジキル博士の中で生きさせる、彼を受け入れさせる余裕だろう。それを指摘するのは普通のことなのかも知れない、けれどもそれを普通のことと言わざるを得ない人間の「性質」について、悲しさを感じるのは私だけだろうか。
ジキル博士とハイド氏 コレクターズ・エディション [DVD]
1932年の作品は、主役の男優がかっこいい。
1941年のほうは、何といってもバーグマンの美しさ。個人的にはバーグマンの最高の作品だと思う。
歌も聞けるし、ほんの一瞬だが脚線美も見せている。
ジーキル博士とハイド氏 (新潮文庫)
昭和42年の訳なので、
こんなものなのかもしれませんが、
訳が不自然です。
しかし、内容が優れているために、
読んでいるうちに、下手な訳は気にならなくなります。
有名な話でストーリーもほぼ知っているにもかかわらず、
のめりこむように読んでしまいました。
それにしても、みんなよく知っている話だとはいうものの、
表紙裏の紹介文に、ストーリーの核心部分を、書くなっちゅうの。
まったくはじめて読む人もいるだろうに!!
ジキル博士とハイド氏 (ユニバーサル・セレクション2008年第5弾) 【初回生産限定】 [DVD]
1932年と1941年の二つの作品が楽しめる。両方とも白黒で今から見ると9年の違いにかかわらずどっちもかなり古い映像なのだけれど、見比べる面白さはある。
基本的なストーリーは、ちょっと変わった科学者が、人間の悪の部分を強調させてしまう薬を開発。悪の部分を出現させるだけでなく、見た目もぜんぜん変わってしまう。
若いロンドン紳士と美しいレディの平和な結婚話から始まって事態はどんどんとエスカレートしていき、最後のアクションと悲劇へと展開していくという非常に見世物的要素の強い映画。当時の女性観客がまゆをひそめながら驚きの声をあげる様子が想像できる。
紳士としてのしがらみに抑圧され、たまにはあばずれ女とはめをはずしたいという気持ちが背景にあり、これの映画を見ている一般庶民は、「紳士ってやつも退屈だ。一般庶民が気楽でいいや」とさぞかし思ったことだろう。そんなところにこの作品の人気の秘密があるのかもしれない。
さて、僕がこの映画を見た理由は、ほかでもないイングリッド・バーグマンが汚れ役をやっているからである。裸にされ、馬車の馬にされて、鞭うたれるという(想像のシーンだけだが)、とんでもない役だ。ところが、彼女は、あばずれ女を演じるには品がよすぎたようで、32年の作品の女優のほうが役としてははまっている。
比較の話でいうと、ハイド氏も32年のほうが、猿の化け物のようでコワ面白い。41年のハイドは特に見た感じ化け物という感じはない。
ジーキル博士とハイド氏 (岩波文庫)
ジキル博士とハイド氏といえば、もう二重人格の代名詞にまでなっているが、数々の小説や映画などにパロディとして取り上げられたり、各国のクリエーター達に多大な影響を与えたりした筋金入りの名作でもある。
優秀な弁護士アタスンの親友である医学博士兼、教会法博士兼、法学博士兼、王立協会会員のヘンリー・ジキルと、そのジキルに擁護されている醜怪で誰もが嫌悪感を覚えるような容貌のエドーワード・ハイド。弁護士アタスンは友人ジキルから自分が死亡および三ヶ月以上に及ぶ失踪の場合に、その遺産を全てハイドに委譲するという奇妙な遺言書を受け取って、不審に思う。ハイドとは何者か? また友人ジキルとはどういう関係なのか? そのような疑問のなか物語は展開していく。訳もGOOD。しかも表紙もカッコイイ! これは是非買って読むべきでしょう。