現代語訳 日本書紀 (河出文庫)
いまさらながら、思いついたことがある。気がついた、というべきか、気のせいか、というべきか……。
この時、スサノヲノ尊は、年すでに長じて、八握もあるほどの長い鬚が生えていた。それなのに天の下なる国を治めることをしないで、なお足ずりをして大声に泣き喚き、頬をふくらませて怒り、かつ怨んだ。そこでイザナギノ尊が尋ねるには、/「お前はどうして、いつもそんなに泣いているのか?」/こう言ったところ、答えて、/「私は母君のおいでになる根国にお供したいと思い、それで泣いているのです。」
〈八握もあるほどの長い鬚〉を生やした、いい年したおっさんが、〈足ずりをして大声に泣き喚き、頬をふくらませて怒り、かつ怨んだ〉。
大袈裟、にもほどがある。いや、大袈裟、というより、ほとんどコントだ。めたくたである。そうして、なぜ、泣いているのかといえば、お母さんのいる、あの世に行きたいのだ、という。スサノヲノ尊は、お母さんが、大好きであるらしい。また彼は一面、「その性質が乱暴で、壊したり傷つけたりすることを好んだ」、という。ところでスサノヲノ尊には、お姉さんもいる。アマテラスオホミカミだ。「この御子は、その身体が光り輝いていて、天地四方にまで光が及んだ」、とある。
乱暴で母に甘える弟に、〈天地四方にまで光〉を放つ姉。――この取り合わせって、……なんだか、太宰「斜陽」の直治とかず子みたいじゃないか? なんて思いついた、というべきか、気がついた、というべきか、気のせいか、というべきか……母の死を追うように命を絶った直治と、あの世の母を慕うスサノヲノ尊との相似なんか、……気のせいか。
大袈裟、を感じさせる表現が、実は、リアルへと肉迫していく仕掛けとして機能している点なども、太宰の文章に通じるものがあるのではないか? なんて、思いついた、というべきか……気のせいか。
話が飛ぶが、私が一番好きなのは、スクナビコナノ命だ。
その時、海上から不意に人の声が聞えてきた。オホアナムチノ神は驚いて探し求めたが、海上に舟もなく、人の姿もなかった。しかししばらくするうちに、眼にもとまらぬほどの小さな男が、ががいもの実を二つに割ってその莢を舟の代りにし、みそさざいの羽を着物の代りとして、波のまにまに浮びながら、岸に寄って来た。
この続きが、また、私は好きなのだが、ここでは省略する。はじめて酒を作ったのは、スクナビコナノ命である、という。あるいは、それは芋焼酎であったかもしれない。
草の花 (新潮文庫)
結核が死に至る病では無くなった今日結核療養所としてのサナトリウムという語はもう死語に
なったのだろうか。結核は多くの人々多くの青年達を死に追いやったがまた多くの文学作品を
生み出した。その作品達は若さの死故何れも悲しく美しい。戦争も遠い過去となり若くしての
死がなくなり死ぬのは年寄り、癌か心臓病か老いか。物語も青年達の死を扱ったものがなくな
り精々白血病あたり。この作品はまだ青年達が戦争や病で多く死に絶えた頃のあまりにも美
しくはかない奇跡的な輝きを放つ物語。 〜もし僕等がお互いに愛し合い、何の煩いもなく何
の不安もなく、ねむの葉陰に〜このように苦しむこともなく、もっと自然に、もっと素直に、僕等
が愛し合えるならば。 〜ねむの葉は、夕べを待って、一日の、平和な、忘却の眠りを眠るだろ
う。その小さなねむの眺めが、僕の心を悲しくした〜
「忘却の河」以来この作家の作品を読んだがこれはあまりに切なく美しい小説であった。もっ
と若い頃にこの小説を読んでいたら、と今更ながらに思った。青春の美しい思い出になったか
も知れない。
廃市 デラックス版 [DVD]
「廃市」は原作に忠実に映像化された、めずらしい映画かもしれない。
原作を後で読んで、びっくりしたほどである。
しかし、福永武彦に対しての大林監督の傾倒と尊敬の念を知れば、当然と思える。
それに過剰な程にさえ文学的な薫りを大切にしている成熟した映画として完成度が高い。
この映画は16mmフィルムで創られ、小さなスクリーンで静かに観るのに適しているようかにさえ、つくり手の心が配られている。
この映画の中で、すべての登場人物たちが互いに擦れ違う愛の想いを内に抱えながら、なぜか宿命的に伝えきれず、しかしそれでもそれを大切にして生き、または死んでいく姿は、全編の雰囲気にミステリアスなムードと、福永文学の魅力が映画時間のなかに底流している。
それが舞台になっている柳川の川の表情と、みごとにひとつの世界を完成させていて、福永武彦文学の読者にはぜひお薦めしたい、愛、死と孤独を悲しく甘美に描いた映画である。
合唱名曲コレクション(28) 雪明りの路
廃盤になっていますが、多田武彦の作品を知る上で欠かせない演奏ですので、再販してほしいCDです。中古市場でも結構な値段がついていますので。
『雪明りの路』の演奏は関西学院グリークラブですが、指揮は福永陽一郎氏です。合唱の歌わせ方、テンポ設定など微妙に北村協一氏とは違うのが多田武彦マニアにとっては興味深いところです。関学グリーの名演奏で、圧倒的な量感をもって男声の厚いハーモニーが飛び込んできます。ナローレンジの録音ですが、歴史的な演奏の価値に免じてください。録音データはありませんが、1975年発売のLPの解説が転載してありますので、それ以前なのは確かです。
『富士山』は福永陽一郎指揮、日本アカデミー合唱団(合唱団京都エコーのメンバーが中心)の演奏です。合唱指導は関屋晋氏という豪華な顔ぶれです。1970年発売のLPが音源ですから、演奏は今の感性から聞くと厚く重く聞えるかもしれませんが、これが多田武彦ですし、この心を揺さぶるような量感がたまりません。この重厚な音色は現在の男声合唱団からは生まれないでしょう。
『在りし日の歌』は北村協一指揮、関西学院グリークラブ、『冬の日の記憶』は福永陽一郎指揮、同志社グリークラブで、大学グリークラブの名演奏を聴くことができます。いずれも1982年3月に池田市民文化会館で収録されました。
ライナーノートは多田武彦氏と福永陽一郎氏が各曲について思いが綴られており、資料的価値も高く、読んでいてとても参考になります。なにより伊藤整氏の手紙が収録されていますから。
多田武彦氏やトレーナーの大久保昭男氏はお元気ですが、関屋晋、福永陽一郎、北村協一という名指揮者は鬼籍に入られました。名演奏を残された方々に感謝の気持を込めて。
現代語訳 古事記 (河出文庫)
私は古文はさっぱりなので、古事記を読むにも分りやすい現代語訳に頼るしかありません。
その中で、本書ほど読みやすく、分りやすいものはありませんでした。
参考に挙げますと、他には、学研M文庫「古事記」(梅原猛著)と、文藝春秋「口語訳古事記 完全版」(三浦佑之著)を読みました。これらも素晴らしい訳と思いますが、本書ほどではありませんでした。
ほとんどの古事記の本では、解説をページ下段や別ページに置き、その解説を参照しながら読むのですが、そのような読み方では、視線を解説に移す度に思考が止まり、なかなか内容が把握できません。しかし、本書は、解説をみなくて済むよう、最小限の解説を本文自体に埋め込むことで、リズムを掴んだまま楽しく読むことができます。
他の著者達は、素人が読むにはこういった配慮が必要と考えないものなのかなあと疑問に思います。
古事記は、表面的に見ると、漫画以下のお馬鹿なお話に感じるかもしれませんが、聖書や仏典、あるいはタオイズム(道教)に全く劣らない深く壮大な世界を秘めています。特に我々日本人には非常に重要なものを持っているのではないかと感じます。
できれば、この読みやすい古事記を何度も読み、日本人のDNAに潜む神秘な力を呼び覚まして欲しいものと思います。