8・15と3・11―戦後史の死角 (NHK出版新書 388)
戦後というのがなんだったのか。そのことを考えるとすれば、笠井の指摘はいろいろ納得する。
戦前の、空気に支配された状態が、たくさんの悲劇をうみだし、戦後も空気に流されるように、敗戦ということが忘れられて終戦になり、天皇制が残る。広島と長崎に落とされた原爆の責任を米国に問うことなく、原子力の平和利用の名の下に、原発が推進されていく。
空気が支配する無責任体制は戦前も戦後も変わっていない。おおざっぱに言えば、そういった指摘がなされている。
そして、そういった状況で忘れられたことに対する、戦没者の怒りがゴジラだったという。
けれども、東日本大震災がゴジラだったという指摘は、少し違うのではないか。地震は人の営みとは無関係に起こる。何のメタファでもない。
確かに、原発事故の背景には、かつての軍部と同じ無責任な空気が、原子力ムラにあったことは確かだろう。だが、原発事故を第二の敗戦ととらえることは、やはり無理があると思う。結局、敗戦ではなく終戦になることでさまざまなものが忘れられていった、そのことが照らす原発事故、という一面のことでしかない。
本当に、戦後論ということでは、あらためて笠井が指摘することは重要だとは思う。けれど、東日本大震災と原発事故を論じるには不十分なのだと思う。
戦前の、空気に支配された状態が、たくさんの悲劇をうみだし、戦後も空気に流されるように、敗戦ということが忘れられて終戦になり、天皇制が残る。広島と長崎に落とされた原爆の責任を米国に問うことなく、原子力の平和利用の名の下に、原発が推進されていく。
空気が支配する無責任体制は戦前も戦後も変わっていない。おおざっぱに言えば、そういった指摘がなされている。
そして、そういった状況で忘れられたことに対する、戦没者の怒りがゴジラだったという。
けれども、東日本大震災がゴジラだったという指摘は、少し違うのではないか。地震は人の営みとは無関係に起こる。何のメタファでもない。
確かに、原発事故の背景には、かつての軍部と同じ無責任な空気が、原子力ムラにあったことは確かだろう。だが、原発事故を第二の敗戦ととらえることは、やはり無理があると思う。結局、敗戦ではなく終戦になることでさまざまなものが忘れられていった、そのことが照らす原発事故、という一面のことでしかない。
本当に、戦後論ということでは、あらためて笠井が指摘することは重要だとは思う。けれど、東日本大震災と原発事故を論じるには不十分なのだと思う。
バイバイ、エンジェル (創元推理文庫)
笠井の小説は、『テロルの現象学』の限界を露わにすることだけに寄与しているという意味で、がっかりさせられる。特に、彼の小説の中でも最も良質と評価されている本作品においてもそうなのだから。
意図としては、あまりそういったことに関心のない人をその世界に引き込むために小説化したのかもしれないが、先に『テロルの現象学』から入ってしまうと、そこで提示された問題性が実は底が浅かったのかなと思わされてしまうのである。
笠井の小説世界においては、特定の狂信的・テロリスト的革命家が背後ですべてを操っていることになっている。主人公との対決図式を明確にするという物語的な機能によって作品としての緊張感を醸しだしているのは事実だが、『テロルの現象学』が提示した思想の怖さ(と同時に実は魅力でもある)という観点からすると、それだけじゃないでしょ?といいたくなる。
あと、イマドキ、テロリスト・ネタなら『24』あたりを見たほうが物語としては断然面白いんだよね。
意図としては、あまりそういったことに関心のない人をその世界に引き込むために小説化したのかもしれないが、先に『テロルの現象学』から入ってしまうと、そこで提示された問題性が実は底が浅かったのかなと思わされてしまうのである。
笠井の小説世界においては、特定の狂信的・テロリスト的革命家が背後ですべてを操っていることになっている。主人公との対決図式を明確にするという物語的な機能によって作品としての緊張感を醸しだしているのは事実だが、『テロルの現象学』が提示した思想の怖さ(と同時に実は魅力でもある)という観点からすると、それだけじゃないでしょ?といいたくなる。
あと、イマドキ、テロリスト・ネタなら『24』あたりを見たほうが物語としては断然面白いんだよね。