シークレット・エニグマ(SECRET ENIGMA)(直輸入盤帯ライナー付)
レアで刺激的な東欧、アフリカ、アジアの音源を独自の嗅覚で探し出して発売するFINDERS KEEPERS(英)より。
直輸入盤にディスクユニオンが日本語のライナー付帯を付けたCDです。
ポーランド出身で同国のアンジェイ・ズラウスキー、アンジェイ・ワイダ監督の映画への参加でしられる異才、アンジェイ・コジンスキーの主に映像用に作曲された初期作品のコンピレーションです。
収録曲
1. TRYING TO CATCH A FLY:「蠅取り紙(Polowanie na muchy 1969)」アンジェイ・ワイダ監督。未使用曲。
2. LA GRABUGE (POP THEME):「Le grabuge 1968(公開1973)」 Edouard Luntz監督、原曲はベイデン・パウエル(Baden Powell)
3. AGENT NO. 1:「Agent nr1(1972)」Zbigniew Kuzminski監督
4. OPETANIE FIVE:「ポゼッション(Possession.1981)」アンジェイ・ズラウスキー監督。未使用曲。
5. SAVED FROM OBLIVION :「大理石の男(Czlowiek z marmuru 1977)」アンジェイ・ワイダ監督
6. TAJEMNICA ENIGMY:「Secret Enigma(1977)」未使用トラック
7. W INSTYUCIE:「夜の第三部分(Third Part of The Night.1971)」アンジェイ・ズラウスキー監督。
8. W PUSTYNI I W PUSZCZY:「砂漠と森(1973)」Wladyslaw Slesicki監督
9. THE DZIEKANKA STUDENTS' HOSTEL (II):「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。Grupa ABC
10. LANDSCAPES:「白樺の林(Brzezina)(1970)」アンジェイ・ワイダ監督
11. LOSY OST (MID-BEAT THEME):1974。ポーランドのTV番組の為に作られたが未発表曲。
12. THIRD PART OF THE NIGHT CZOLOWNICA:「夜の第三部分(Third Part of The Night.1971)」アンジェイ・ズラウスキー監督
13. DIABEL:「悪魔(1972)」アンジェイ・ズラウスキー監督。未使用曲。マスターテープ廃棄の為カセットコピーより。
14. LA GRABUGE (ORCH POP THEME):「Le grabuge 1968(公開1973)」 Edouard Luntz監督、原曲はベイデン・パウエル(Baden Powell)。未使用曲。
15. ROSA ROSA (WITH ARP LIFE):ARP LIFEの未発表LP「for Polskie Nagranin Muza (1978/79)」より。
16. BOSSA NOVA (FEAT. EWA WANAT):「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。
17. THE DZIEKANKA STUDENTS HOSTEL (I):「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。
18. LAPANKA:「夜の第三部分(Third Part of The Night.1971)」アンジェイ・ズラウスキー監督。
19. LA GRABUGE (ORCHESTRA THEME) :「Le grabuge 1968(公開1973)」 Edouard Luntz監督、原曲はベイデン・パウエル(Baden Powell)。未使用曲。
20. LOSY OST (MID-GUITAR THEME): 1974。ポーランドのTV番組の為に作られたが未発表曲。
21. TRYING TO CATCH A FLY (REPRISE) :「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。未使用曲。
22. WSZYSTKO NA SPRZEDAZ TANIEC:「すべて売り物(Wszystko na sprzedaz.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。
音楽学校でクラシックを学んだ後、ラジオ局に就職し様々な音楽を自家薬篭中の物としたコジンスキーの音楽は、ズラウスキー映画用の尖った感触のサイケロックから、ボサノヴァ、ジャズ、前衛音楽と非常にバラエティーに富んでいます。
個人的にはズラウスキーの劇場用長編デビュー作「夜の第三部分」のエンディングに使用された強烈なファズギターが印象的な12と、劇中何度も挿入される不穏で焦燥感を募らせるタンゴ、7が非常に気に入りました。
22曲入りで40分強。
もっと聴きたくなるアーチストです。
ジャンルを越境した尖がった人力の音楽がお好きな方、ズラウスキー、ワイダ両監督の作品がお好きな方、大いにお勧めです。
Andy Votel氏による26頁に及ぶ詳細な解説(英文)付ブックレットと、佐藤道彦氏によるライナー(日本語)ともに読み応えが御座います。
ズラウスキーとの初仕事が伝説的なTV番組「Pavonsello(1967。残念ながら本作には未収録)」であった等、貴重な情報が満載です。
そして、FINDERS KEEPERSのロゴ・ステッカーがオマケとして付いてきました。
直輸入盤にディスクユニオンが日本語のライナー付帯を付けたCDです。
ポーランド出身で同国のアンジェイ・ズラウスキー、アンジェイ・ワイダ監督の映画への参加でしられる異才、アンジェイ・コジンスキーの主に映像用に作曲された初期作品のコンピレーションです。
収録曲
1. TRYING TO CATCH A FLY:「蠅取り紙(Polowanie na muchy 1969)」アンジェイ・ワイダ監督。未使用曲。
2. LA GRABUGE (POP THEME):「Le grabuge 1968(公開1973)」 Edouard Luntz監督、原曲はベイデン・パウエル(Baden Powell)
3. AGENT NO. 1:「Agent nr1(1972)」Zbigniew Kuzminski監督
4. OPETANIE FIVE:「ポゼッション(Possession.1981)」アンジェイ・ズラウスキー監督。未使用曲。
5. SAVED FROM OBLIVION :「大理石の男(Czlowiek z marmuru 1977)」アンジェイ・ワイダ監督
6. TAJEMNICA ENIGMY:「Secret Enigma(1977)」未使用トラック
7. W INSTYUCIE:「夜の第三部分(Third Part of The Night.1971)」アンジェイ・ズラウスキー監督。
8. W PUSTYNI I W PUSZCZY:「砂漠と森(1973)」Wladyslaw Slesicki監督
9. THE DZIEKANKA STUDENTS' HOSTEL (II):「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。Grupa ABC
10. LANDSCAPES:「白樺の林(Brzezina)(1970)」アンジェイ・ワイダ監督
11. LOSY OST (MID-BEAT THEME):1974。ポーランドのTV番組の為に作られたが未発表曲。
12. THIRD PART OF THE NIGHT CZOLOWNICA:「夜の第三部分(Third Part of The Night.1971)」アンジェイ・ズラウスキー監督
13. DIABEL:「悪魔(1972)」アンジェイ・ズラウスキー監督。未使用曲。マスターテープ廃棄の為カセットコピーより。
14. LA GRABUGE (ORCH POP THEME):「Le grabuge 1968(公開1973)」 Edouard Luntz監督、原曲はベイデン・パウエル(Baden Powell)。未使用曲。
15. ROSA ROSA (WITH ARP LIFE):ARP LIFEの未発表LP「for Polskie Nagranin Muza (1978/79)」より。
16. BOSSA NOVA (FEAT. EWA WANAT):「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。
17. THE DZIEKANKA STUDENTS HOSTEL (I):「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。
18. LAPANKA:「夜の第三部分(Third Part of The Night.1971)」アンジェイ・ズラウスキー監督。
19. LA GRABUGE (ORCHESTRA THEME) :「Le grabuge 1968(公開1973)」 Edouard Luntz監督、原曲はベイデン・パウエル(Baden Powell)。未使用曲。
20. LOSY OST (MID-GUITAR THEME): 1974。ポーランドのTV番組の為に作られたが未発表曲。
21. TRYING TO CATCH A FLY (REPRISE) :「蠅取り紙(Polowanie na muchy.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。未使用曲。
22. WSZYSTKO NA SPRZEDAZ TANIEC:「すべて売り物(Wszystko na sprzedaz.1969)」アンジェイ・ワイダ監督。
音楽学校でクラシックを学んだ後、ラジオ局に就職し様々な音楽を自家薬篭中の物としたコジンスキーの音楽は、ズラウスキー映画用の尖った感触のサイケロックから、ボサノヴァ、ジャズ、前衛音楽と非常にバラエティーに富んでいます。
個人的にはズラウスキーの劇場用長編デビュー作「夜の第三部分」のエンディングに使用された強烈なファズギターが印象的な12と、劇中何度も挿入される不穏で焦燥感を募らせるタンゴ、7が非常に気に入りました。
22曲入りで40分強。
もっと聴きたくなるアーチストです。
ジャンルを越境した尖がった人力の音楽がお好きな方、ズラウスキー、ワイダ両監督の作品がお好きな方、大いにお勧めです。
Andy Votel氏による26頁に及ぶ詳細な解説(英文)付ブックレットと、佐藤道彦氏によるライナー(日本語)ともに読み応えが御座います。
ズラウスキーとの初仕事が伝説的なTV番組「Pavonsello(1967。残念ながら本作には未収録)」であった等、貴重な情報が満載です。
そして、FINDERS KEEPERSのロゴ・ステッカーがオマケとして付いてきました。
アンジェイ・ズラウスキーについて語りたい事はあまりにも多く、書くべきページはあまりにも少ない。代表作「ポゼッション」はめでたくスティングレイから再発されたが、最も重要な初期作品は、国内ではほとんどソフト化されていない(VHS時代にもだ!)唯一、と云っていい「シルバー・グローブ」も未だDVD化される事なく絶版のまま。という事で、この際ここに「ズラウスキー・クロニクル」と題して初期3作品(プラスワン)のレビューを展開する。ただでさえ長文で普段からカスタマーの方々のひんしゅくを買っているであろうが、今回は間違いなく最長レビューになるであろう。
さて、ここから先は正常な精神の持ち主は「風と共に去りぬ」や「サウンド・オブ・ミュージック」といったまっとうな作品のページへ退避する事をオススメする。冥府回廊を巡る覚悟ができている方のみ、ご同行頂こう。
いざ、「向こう側」の世界への扉を開かん。
【1971年】 『夜の第三部分』〔アンジェイ・ムンク賞 最優秀新人監督賞受賞('72)他/1995年、シネマアルゴ新宿にて公開〕
第二次世界大戦下のポーランド。主人公ミハウ(レシェック・テレシンスキ)はある日、ナチスの騎兵によって妻と子供を殺されてしまう。抵抗運動に身を投じるうち、ミハウはある日、彼の妻に生き写しの女性マルタ(マウゴジャータ・ブラウネック)と出会う。彼女は産気づき、出産。ミハウはマルタと赤ん坊を守ろうと決め、ナチスの発疹チフスのワクチン作りのために協力する。それは、シラミに自分の血を吸わせる(マッチ箱ほどのサイズの箱にシラミが詰め込められ、片面が網状になっていて、その部分を肌に密着させて血を吸わせる。かなり気色悪い・・・)という生体提供だった。やがてミハウは拘束中の彼女の夫も助けようと考え、病院に忍び込む。しかしそこでミハウは、信じられない光景を目撃する・・・。
この物語は、ズラウスキーの父・ミロスラフの体験を元にしている。あるとき父に戦争体験を語ってほしいとねだったら、父は語る代わりに物語を書いたという。それを脚色し、映画にしたのが本作だ。「この映画の中で描かれているものは、全て真実である」とズラウスキーは言う。それは、ノンフィクションという意味ではなく、ナチスのワクチン作りに協力する、といった映画に出てくる事柄である。
実はこの映画は、旧ポーランド領ルブフ(現ウクライナ領リヴィウ)にあった「ルドルフ・ヴァイグル研究所」について描かれた、おそらく唯一の映画、なのである。これは、ナチスドイツ国防軍に発疹チフスのワクチンを供給していた施設で、占領下ポーランドの知識階級の人たち(著名な数学者や音楽家もいたという)がワクチンを作るための「シラミへの血液供給者」として雇われていた。ヴァイグルはそうした知識人やレジスタンスの闘士らを雇うことで、ナチスから彼らを匿ったのである。血液提供者に配布された手帳を持つことは身の安全の保障を意味し、ナチス占領下で地下活動を行っていたミロスラフにとっても、格好の隠れ蓑になったという。
血液提供者の血を吸ったシラミは、発疹チフスの細菌に感染させられ、細菌はシラミの胃細胞内で繁殖したあと、石炭酸で殺される。そしてシラミの腹が切り裂かれて抗体を採取し、ワクチンが作られる。この過程が詳細に描かれ、戦時下のポーランドで行われていた知識階級の奇妙な保護活動について描いた、資料的価値が高い映画でもある。
若きズラウスキーのデビューは、喝采を持って迎え入れられ、数々の賞を受賞した。そして、この処女作で早くもズラウスキーのスタイルは完成されており、何かに取り憑かれたような、強迫観念的で狂気漂う世界が展開。特に、シラミを細菌に感染させるシーンの気色悪さといったら・・・顕微鏡カメラの大写しの中で、シラミのケツに注射針が刺され、身悶えするシラミ。そしてその後、シラミは顕微鏡の中で、ピンセットで腹をつぶされる・・・観ているだけで「もうやめてくれ〜!!」と叫びそうになってしまう。ラストの病院も、目を背けたくなるような死臭漂うシーンが次々と展開する。また、この時代にほとんど無かった手持ちカメラで撮影をし、疾走するズラウスキー・カメラワークは、早くもこの第1作で芽吹きはじめている。
ズラウスキーは、映画の完成後、主演女優マウゴジャータ・ブラウネックと結婚。(その後離婚)彼女との間に生まれた息子クサヴェリも、映画監督になった。
「夜の第三部分」の物語形式を説明する事は、そのままネタバレを意味してしまうので多くは語らないが、人々の喝采に包まれ、ここに「呪われた映画監督」が高らかな産声を挙げた、ことだけは間違いない。
【1972年】 『悪魔』〔1989年、新宿武蔵野館にて公開〕
「女は笑い、男は狂う。愛と狂気はいつも紙一重・・・。」
これはレイトショー公開された時のキャッチコピーだが、その文句に偽りなし。「ポゼッション」すら凌駕する、ズラウスキー最狂映画である。
18世紀末、ポーランドが他国に分割占領(第二次ポーランド分割)されようとしていた前夜、国土はロシアやプロシアなどの軍事勢力に蹂躙されていた。愛国心から反乱を起こし、捕えられていたヤクブ(レシェック・テレシンスキ)をプロシア人の謎の男(ヴォイチェフ・プシォニャック)が助け出す。男は、ワルシャワへ向かおうとするヤクブを、故郷へ帰るよう巧みに説得する。しかし、生家へ戻る旅の途中、婚約者(マウゴジャータ・ブラウネック)はかつての友に寝取られ、彼女は精神に異常をきたしていた。
地獄のような祖国をさまようヤクブもまた精神の均衡を崩していき、謎の男から手渡されたカミソリで母や妹たちを衝動的に殺していく・・・さまよえる殺人者と化すヤクブ。彼を導く謎の男は、ヤクブから反乱の共謀者の名前を聞き出そうとする。男の目的は?そして彼らの行く手に待ち受ける運命は・・・?
第2作にしてトレードマークと化した、めまぐるしく動き回る手持ちカメラ。初期ズラウスキー作品のミューズ、マウゴジャータ・ブラウネックは「ポゼッション」のイザベル・アジャーニそっくの身振り手振りで嗤い、狂う(あれはアジャーニの演技力ではなく、ズラウスキーが指導していたのだ!)。どす黒い血のイメージ。荒涼とした風景の中、主人公の歩んだ後に残るのは累々たる屍のみ・・・。
この作品は完成後、「あまりにも過激で暴力的、かつ残忍」という理由で「上映禁止」処分を受けてしまう。早くも第2作にして、ズラウスキーは「呪われた映画作家」の烙印を押されてしまったのだ。
この映画を難解にしているのは、ズラウスキーの、この作品テーマへのアプローチがコントロール不能に陥り、暴走していくところである。日本公開時、パンフと呼ぶにはあまりにもハンドメイドな白黒コピーの、6ページ程の資料が配布された(笑ってはいけない、貴重な資料だ!)。その中では、主人公ヤクブを導く謎の男を「スパイに身をやつした悪魔」と意味不明な言葉で表現している。なぜ悪魔がスパイにならなければいけないのか?一体誰のスパイなのか?そもそもこの男を「悪魔」と言ってしまうのは、実はストーリー展開上ネタバレになってしまうのだが・・・。
現在この映画について調べてみると、どの解説も一様に「悪魔」と断言している。― この映画の資料はあまりにも乏しく、コピペを繰り返し劣化した情報が氾濫するネット上ではなおさら、紹介文が抽象的になってしまっている。そこで色々調べた結果、海外のサイトでズラウスキーのこの映画へのコメントを発見した。それによると、
この映画は、1968年にポーランドで起こった、検閲への異議や表現の自由を求めた学生デモの鎮圧事件(ポーランド秘密警察の工作員がデモを扇動した)への、ズラウスキーの怒りの抗議を秘めた、寓話的な側面を持つ作品である、と。故にズラウスキーは、この映画が公開禁止となった真の理由は「暴力的な表現」ではなく「政治的な理由」に違いない、と信じているらしい。
とはいえ、この映画は逆立ちして観ても社会派などには見えない。スパイ(工作員?)と悪魔、という解釈の難しい、二面性を持つキャラクターを配し(この男もまた、自問自答を繰り返す。そんな悪魔見たことない・・・)そして愛国者である主人公が狂い、殺人者となっていく不条理な展開。デビュー時からその作品の裡にのたうつ「狂気」の方がいつしか「思惑」をおしのけ、どんどん暴走。背徳・冒涜・発狂・哄笑・流血・絶叫・・・と熱にうかされたように物語は破滅に向かってつき進んでいく・・・悪魔とは一体なにを象徴しているのか?この映画の結末に、政治的メッセージを見出すのは(その前に、どう解釈していいのか)困難だ。ひたすら、ズラウスキーの放つ狂気に身を委ねよ。
1988年、16年の歳月を経てようやく解禁。ワルシャワのアートシアターで公開され、翌年日本でもレイトショー公開。しかし・・・、
私事で恐縮だが、映画作家ズラウスキーにかけられた「呪い」は、創り手のみならず観客である筆者の上にも降りかかる事となった。レイトショー公開の、よりによって最終日に観に行ったのだが、途中で映写機が故障、「上映禁止」ならぬ「上映中止」となってしまった。それから20年近くもの間、この映画の続きが観たくてもがき続けていた・・・ようやく輸入版DVDを手に入れてその「呪い」を解くまでの永かったこと!・・・いや、観終わった後もスッキリはしないの、だけど(苦笑)。
【1975】 『L'important c'est d'aimer(大切なのは愛すること)』〔フランス映画・日本未公開〕
主演:ロミー・シュナイダー、ファビオ・テスティ、クラウス・キンスキー
「夜の第三部分」の上映のためパリを訪れたズラウスキーは、1本の映画の監督を任される事に。それが本作である。
「愛してる」のセリフすら満足に言えず、撮影現場でNGを連発する、売れない女優ナディーヌ(R.シュナイダー)。そのロケ風景を撮影しているカメラマンのセルヴェ(F.テスティ)は彼女が既婚者だと知りつつも、次第に愛するようになる。そして、女優としての自信を喪失したナディーヌに大役を与えるため、セルヴェは裏契約を結ぶが、そのために彼は闇社会から大金を借りることになる。2人を待ち受ける悲劇的な結末 ― その時、皮肉にもナディーヌが口にした言葉は・・・。
本作品はパリで大ヒットし、ズラウスキーがヨーロッパで評価されるきっかけになった(後にフランスで、映画作家としてスムーズに活動再開できたのは本作の成功があったからだ)。
ズラウスキーはこの成功に意気揚々と祖国に戻るが、そこで彼を待ち受けていたものは・・・。
【1977−1987】 『シルバー・グローブ ―銀の惑星―』〔日本未公開・ビデオ発売のみ〕
ズラウスキーの大叔父にあたる作家イェジー・ズラウスキーの「月・三部作」(あのスタニスワフ・レムが影響を受け“SF作家になるきっかけとなった”といわれる小説だ)の第一部と第二部を中心に映像化した壮大なSF。宇宙飛行士たちが未知の惑星に不時着し、安住の地を求める旅路と、その子孫の繁栄(?)を描いた年代記。
全てを失った宇宙飛行士たちによる、文明の再現。生命(第2世代)の誕生、コミュニティーの構築、宗教の黎明−豊穣の女神−稲作−文明の勃興、新大陸の発見、シェルン(異民族の怪物)の襲撃・・・明らかにこれは、ズラウスキー一族による創世記への挑戦だ。そしてそのイメージは、キリスト教が道徳や倫理をもたらす前にこの世を支配していた、荒々しい生存本能の塊 ― 野蛮な原初的生命力とアヴァンギャルドの融合である。
ホドロフスキーやパゾリーニ、D.リンチの映画を濃縮したような、前衛と原始が交じり合ったようなアート感覚。
ズラウスキーは黒澤明のファンで、「蜘蛛巣城」で山田五十鈴が血の幻影に怯えるシーンを、自ら再現できるほどだというが、カブキのような奇抜なメイクで、見たこともないようなファンタスティックな形の髷やフンドシといった、日本文化を意識したようなビジュアルも登場する。
そして、鬼気迫る、取り憑かれたような演出はここでも健在。めまぐるしい手持ちカメラ、這いずり回り、のた打ち回り、狂ったように果てなき自問自答を繰り広げる登場人物たち。そして、どうやら人間の自己投影、とおぼしき怪物シェルンの正体・・・SFといいつつ、物語はエンターテイメントではなく、ひたすら思索の迷宮を彷徨い続ける。「スターウォーズ」が公開された年に、東欧の片隅で人知れずこのような凄まじいSFが製作されていた事は非常に興味深いのだが・・・。
狂信的ともいえる映画制作への没入、超過する膨大な制作費、宗教や文明への、怖れ知らずな挑戦・・・、ポーランド文化庁副長官と映画省次官が恐れたのは何だったのか―「製作中止」を決定。ズラウスキーは、2度に亘って煮え湯を飲まされる事となった。
傷心のズラウスキーは映画製作の自由を求め、故国を捨てて渡仏。以降、フランスで映画活動を続けていたが、製作中止令から10年後、民主化の波も手伝ってか、ポーランド政府はようやく態度を軟化、製作再開の許可を出す。しかし、衣装や小道具のほとんどは破棄され、俳優は歳をとり、10年の歳月を経ての撮影再開は事実上不可能だった。
ズラウスキーはカメラを手にポーランドを駆け巡り、街並みや人々の顔、風景などを撮影。製作中断で未撮だった本編の5分の1を、現代の街や人々の映像と自らのナレーションで補完し、強引に完成させた。
映画のラストでは、製作が中止された経緯と、命令に反して衣装の一部を家に隠していたスタッフ達への感謝の言葉で綴られる。やがて、ショーウィンドウに映る一人の男 ― 「私の名はアンジェイ・ズラウスキー、『シルバー・グローブ』の監督だ」そして彼は、逃げるように走り去っていく・・・。
中断してしまった映画を、こうした方法で完成させたものとしては、同ポーランドのアンジェイ・ムンクの「パサジェルカ」がある。これは監督が撮影中に亡くなったため、友人達が写真とナレーションで補完したものだ。ズラウスキーが「シルバー・グローブ」を似た手法で完成させた理由は、単純なものではないと思う。映画製作を滅茶苦茶にしたポーランド政府への怒りもあったと思うが、一方で処女作「夜の第三部分」で賞の名に冠された、アンジェイ・ムンク監督へのオマージュでもあったのではないかと、筆者は密かに思っている。
ズラウスキーの映画には、陶酔に似た何かがある。それは決して心地の良い陶酔ではなく、肌の下に潜り込み、精神の奥深くを、いやおうなしにかきまわす・・・いわばドラッグの様なトリップ感、だろうか。筆者のように、その狂気にシンクロする人間は魅入ってしまうのだが、理解できない人には、とほうもなく苦痛で不愉快、そして意味不明に感じるようだ。
ズラウスキー自身は戦時中に生まれたため、戦争の記憶はない。父が賢く立ち回ったため強制収容所に入れられる事もなく、少年時代はパリで暮らしていた事もあり、ことさら不幸な人生を送ってきたようには思えない(もちろん詳しい事は判らないが)。故に、デビューから一貫して彼の映画の中に存在する強迫観念めいた自己探求や、狂気の正体は第三者から視ると謎、である。「私の映画は、私自身の苦悩についてのもので、女性(のキャラクター?)は、それを描くための手段である」といった発言はあるのだが、若い頃から女性関係に悩まされていたのだろうか。それはズラウスキー本人にしか解らない事、である。
インターネット時代に突入し、一般にあまり知られていないようなカルトな監督も、在野の凄い研究家たちがHPやブログなどで紹介するようになったが、なぜかズラウスキーに関しては、これといったものが存在せず、ウィキペディアですら貧弱な情報しか載っていない(本レビュー初掲載時の2011年時点での話状況)。しかも情報や表現があいまいである。「夜の第三部分」で例えると、シラミに血を吸わせるのを「人体実験」と表現している資料ばかりで、何の実験かよく判らない。それは実験というよりは、当時猛威をふるってナチス・ドイツを悩ませていた発疹チフスのワクチンをつくるためのものだったのだ。― そうした意味も含め、ズラウスキー作品について知りたい、と考えている人の役に立てるレビューが書ければと思い、このような超長文になってしまった(掲載されるかどうか、不安になってきた)。
ズラウスキーに関しては情報があまりにも乏しく、中には正確ではない表現もあるかもしれないが、単なるコピペではなく、資料を照らし合わせて検証し、判断しながらの記述であることは理解して頂きたい。ズラウスキー自身のインタビュー映像や、ヨーロッパ映画史に詳しく、ズラウスキーにもインタビューをしているDaniel Bird氏の著述などを参考にしているので、甚だしく間違ったものはない、とは思う。
このレビューが、まだ国内でソフト化されていない初期作品がDVD化されるきっかけになれば、これに勝る幸せはない。フランス時代でも、’89年に「ボリス・ゴドゥノフ」を撮っているという情報がある。かなり忠実にオペラ形式で製作された映画らしいが、相変わらずスキャンダラスな内容で物議をかもしたらしい(苦笑)しかし、ズラウスキーのボリス・ゴドゥノフ!観たいものだ。
ソフト会社の担当者の方々の映画愛と、たゆまぬ努力に期待したい。
追記:ズラウスキー初期作品、を謳いながら、ポーランドというキーワードに囚われて「L'important c'est d'aimer」をうっかり抜かしてしまうという失態に気づいてしまった。よって第3版は大幅改稿、一本映画を追加した(これがプラスワン、の意)。今後もズラウスキーの公式(公認?)サイトなどを参照しつつ、追って追加情報、間違いの修正なども随時していく予定。また、色々と調べているうちに「ポゼッション」について発見した事があるので、ズラウスキー・クロニクル#2として「ポゼッション」のページにレビューを書きました。実はほとんど私小説、と思しき作品だったのである・・・!?
追記2:2013年11月から12月にかけて、「ポーランド映画祭2013」が東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催され、実に18年ぶりに『夜の第三部分』が日本で上映された。会場はほぼ満席状態で、ズラウスキーが決して忘れられていない事を証明し、感無量の思いだった。
筆者が本レビューで叫んだことがきっかけになったかどうかは判らないが、最近国内でもズラウスキー再評価を巡る状況は、非常に地味ながらも少しずつ改善を見せている。ウィキペディアは控えめな文章量ながらも、ズラウスキーの経歴やフィルモグラフィーが再編集され詳しく、正確な記述になった(マウゴジャータや息子クサヴェリについて、またフィルモグラフィは『大切なのは愛すること』や『ボリス・ゴドゥノフ』が加わった)。そして、『80年代悪趣味ビデオ学の逆襲』(2013年、洋泉社・刊)では、『シルバー・グローブ』に関して、本稿を遥かに超える素晴らしい記事が船積寛泰氏によって書かれ、久々にプロの仕事の底力に唸らされた。これまた感無量。大学生が書いたとおぼしき、ズラウスキーに関する論文もネット上で読むことができるようになった。ただ、日本でソフト化された映画に留まる内容なのはやや残念と言わざるを得ない。
本レビューを最初に書いた時は、発疹チフスワクチンの開発がどのように行われていたか、ネットで調べてもどこにもなかったが、「ポーランド映画祭2013」のパンフに具体的に記述されていたので、それを参考に、本稿でもあいまいだった部分を弱冠修正した。
『夜の第三部分』『悪魔』ほか作品の、日本でのソフト化を願いつつ −
【最終更新日:2013年12/12・第4版】
参考資料:「ポーランド映画史」マレク・ハルトフ著/「夜の第三部分」輸入版DVD(発売元Second Run DVD・PAL)収録のズラウスキーインタビュー、Daniel Bird氏によるライナーノーツ/「私生活のない女」パンフ(ズラウスキーの経歴に関しては、ここに掲載されているものが一番詳しい)/「悪魔」日本公開時の手作りパンフ(制作者に感謝!今となっては大変貴重な資料です)/ズラウスキー公式サイト、及び国内外の関連サイト/そして・・・ここに新たに「ポーランド映画祭2013」パンフレットと「80年代悪趣味ビデオ学の逆襲」を追加したい。
尚、映画の年代については、資料によってまちまちなので基本的にズラウスキー公式サイトの数字を採択しています。
さて、ここから先は正常な精神の持ち主は「風と共に去りぬ」や「サウンド・オブ・ミュージック」といったまっとうな作品のページへ退避する事をオススメする。冥府回廊を巡る覚悟ができている方のみ、ご同行頂こう。
いざ、「向こう側」の世界への扉を開かん。
【1971年】 『夜の第三部分』〔アンジェイ・ムンク賞 最優秀新人監督賞受賞('72)他/1995年、シネマアルゴ新宿にて公開〕
第二次世界大戦下のポーランド。主人公ミハウ(レシェック・テレシンスキ)はある日、ナチスの騎兵によって妻と子供を殺されてしまう。抵抗運動に身を投じるうち、ミハウはある日、彼の妻に生き写しの女性マルタ(マウゴジャータ・ブラウネック)と出会う。彼女は産気づき、出産。ミハウはマルタと赤ん坊を守ろうと決め、ナチスの発疹チフスのワクチン作りのために協力する。それは、シラミに自分の血を吸わせる(マッチ箱ほどのサイズの箱にシラミが詰め込められ、片面が網状になっていて、その部分を肌に密着させて血を吸わせる。かなり気色悪い・・・)という生体提供だった。やがてミハウは拘束中の彼女の夫も助けようと考え、病院に忍び込む。しかしそこでミハウは、信じられない光景を目撃する・・・。
この物語は、ズラウスキーの父・ミロスラフの体験を元にしている。あるとき父に戦争体験を語ってほしいとねだったら、父は語る代わりに物語を書いたという。それを脚色し、映画にしたのが本作だ。「この映画の中で描かれているものは、全て真実である」とズラウスキーは言う。それは、ノンフィクションという意味ではなく、ナチスのワクチン作りに協力する、といった映画に出てくる事柄である。
実はこの映画は、旧ポーランド領ルブフ(現ウクライナ領リヴィウ)にあった「ルドルフ・ヴァイグル研究所」について描かれた、おそらく唯一の映画、なのである。これは、ナチスドイツ国防軍に発疹チフスのワクチンを供給していた施設で、占領下ポーランドの知識階級の人たち(著名な数学者や音楽家もいたという)がワクチンを作るための「シラミへの血液供給者」として雇われていた。ヴァイグルはそうした知識人やレジスタンスの闘士らを雇うことで、ナチスから彼らを匿ったのである。血液提供者に配布された手帳を持つことは身の安全の保障を意味し、ナチス占領下で地下活動を行っていたミロスラフにとっても、格好の隠れ蓑になったという。
血液提供者の血を吸ったシラミは、発疹チフスの細菌に感染させられ、細菌はシラミの胃細胞内で繁殖したあと、石炭酸で殺される。そしてシラミの腹が切り裂かれて抗体を採取し、ワクチンが作られる。この過程が詳細に描かれ、戦時下のポーランドで行われていた知識階級の奇妙な保護活動について描いた、資料的価値が高い映画でもある。
若きズラウスキーのデビューは、喝采を持って迎え入れられ、数々の賞を受賞した。そして、この処女作で早くもズラウスキーのスタイルは完成されており、何かに取り憑かれたような、強迫観念的で狂気漂う世界が展開。特に、シラミを細菌に感染させるシーンの気色悪さといったら・・・顕微鏡カメラの大写しの中で、シラミのケツに注射針が刺され、身悶えするシラミ。そしてその後、シラミは顕微鏡の中で、ピンセットで腹をつぶされる・・・観ているだけで「もうやめてくれ〜!!」と叫びそうになってしまう。ラストの病院も、目を背けたくなるような死臭漂うシーンが次々と展開する。また、この時代にほとんど無かった手持ちカメラで撮影をし、疾走するズラウスキー・カメラワークは、早くもこの第1作で芽吹きはじめている。
ズラウスキーは、映画の完成後、主演女優マウゴジャータ・ブラウネックと結婚。(その後離婚)彼女との間に生まれた息子クサヴェリも、映画監督になった。
「夜の第三部分」の物語形式を説明する事は、そのままネタバレを意味してしまうので多くは語らないが、人々の喝采に包まれ、ここに「呪われた映画監督」が高らかな産声を挙げた、ことだけは間違いない。
【1972年】 『悪魔』〔1989年、新宿武蔵野館にて公開〕
「女は笑い、男は狂う。愛と狂気はいつも紙一重・・・。」
これはレイトショー公開された時のキャッチコピーだが、その文句に偽りなし。「ポゼッション」すら凌駕する、ズラウスキー最狂映画である。
18世紀末、ポーランドが他国に分割占領(第二次ポーランド分割)されようとしていた前夜、国土はロシアやプロシアなどの軍事勢力に蹂躙されていた。愛国心から反乱を起こし、捕えられていたヤクブ(レシェック・テレシンスキ)をプロシア人の謎の男(ヴォイチェフ・プシォニャック)が助け出す。男は、ワルシャワへ向かおうとするヤクブを、故郷へ帰るよう巧みに説得する。しかし、生家へ戻る旅の途中、婚約者(マウゴジャータ・ブラウネック)はかつての友に寝取られ、彼女は精神に異常をきたしていた。
地獄のような祖国をさまようヤクブもまた精神の均衡を崩していき、謎の男から手渡されたカミソリで母や妹たちを衝動的に殺していく・・・さまよえる殺人者と化すヤクブ。彼を導く謎の男は、ヤクブから反乱の共謀者の名前を聞き出そうとする。男の目的は?そして彼らの行く手に待ち受ける運命は・・・?
第2作にしてトレードマークと化した、めまぐるしく動き回る手持ちカメラ。初期ズラウスキー作品のミューズ、マウゴジャータ・ブラウネックは「ポゼッション」のイザベル・アジャーニそっくの身振り手振りで嗤い、狂う(あれはアジャーニの演技力ではなく、ズラウスキーが指導していたのだ!)。どす黒い血のイメージ。荒涼とした風景の中、主人公の歩んだ後に残るのは累々たる屍のみ・・・。
この作品は完成後、「あまりにも過激で暴力的、かつ残忍」という理由で「上映禁止」処分を受けてしまう。早くも第2作にして、ズラウスキーは「呪われた映画作家」の烙印を押されてしまったのだ。
この映画を難解にしているのは、ズラウスキーの、この作品テーマへのアプローチがコントロール不能に陥り、暴走していくところである。日本公開時、パンフと呼ぶにはあまりにもハンドメイドな白黒コピーの、6ページ程の資料が配布された(笑ってはいけない、貴重な資料だ!)。その中では、主人公ヤクブを導く謎の男を「スパイに身をやつした悪魔」と意味不明な言葉で表現している。なぜ悪魔がスパイにならなければいけないのか?一体誰のスパイなのか?そもそもこの男を「悪魔」と言ってしまうのは、実はストーリー展開上ネタバレになってしまうのだが・・・。
現在この映画について調べてみると、どの解説も一様に「悪魔」と断言している。― この映画の資料はあまりにも乏しく、コピペを繰り返し劣化した情報が氾濫するネット上ではなおさら、紹介文が抽象的になってしまっている。そこで色々調べた結果、海外のサイトでズラウスキーのこの映画へのコメントを発見した。それによると、
この映画は、1968年にポーランドで起こった、検閲への異議や表現の自由を求めた学生デモの鎮圧事件(ポーランド秘密警察の工作員がデモを扇動した)への、ズラウスキーの怒りの抗議を秘めた、寓話的な側面を持つ作品である、と。故にズラウスキーは、この映画が公開禁止となった真の理由は「暴力的な表現」ではなく「政治的な理由」に違いない、と信じているらしい。
とはいえ、この映画は逆立ちして観ても社会派などには見えない。スパイ(工作員?)と悪魔、という解釈の難しい、二面性を持つキャラクターを配し(この男もまた、自問自答を繰り返す。そんな悪魔見たことない・・・)そして愛国者である主人公が狂い、殺人者となっていく不条理な展開。デビュー時からその作品の裡にのたうつ「狂気」の方がいつしか「思惑」をおしのけ、どんどん暴走。背徳・冒涜・発狂・哄笑・流血・絶叫・・・と熱にうかされたように物語は破滅に向かってつき進んでいく・・・悪魔とは一体なにを象徴しているのか?この映画の結末に、政治的メッセージを見出すのは(その前に、どう解釈していいのか)困難だ。ひたすら、ズラウスキーの放つ狂気に身を委ねよ。
1988年、16年の歳月を経てようやく解禁。ワルシャワのアートシアターで公開され、翌年日本でもレイトショー公開。しかし・・・、
私事で恐縮だが、映画作家ズラウスキーにかけられた「呪い」は、創り手のみならず観客である筆者の上にも降りかかる事となった。レイトショー公開の、よりによって最終日に観に行ったのだが、途中で映写機が故障、「上映禁止」ならぬ「上映中止」となってしまった。それから20年近くもの間、この映画の続きが観たくてもがき続けていた・・・ようやく輸入版DVDを手に入れてその「呪い」を解くまでの永かったこと!・・・いや、観終わった後もスッキリはしないの、だけど(苦笑)。
【1975】 『L'important c'est d'aimer(大切なのは愛すること)』〔フランス映画・日本未公開〕
主演:ロミー・シュナイダー、ファビオ・テスティ、クラウス・キンスキー
「夜の第三部分」の上映のためパリを訪れたズラウスキーは、1本の映画の監督を任される事に。それが本作である。
「愛してる」のセリフすら満足に言えず、撮影現場でNGを連発する、売れない女優ナディーヌ(R.シュナイダー)。そのロケ風景を撮影しているカメラマンのセルヴェ(F.テスティ)は彼女が既婚者だと知りつつも、次第に愛するようになる。そして、女優としての自信を喪失したナディーヌに大役を与えるため、セルヴェは裏契約を結ぶが、そのために彼は闇社会から大金を借りることになる。2人を待ち受ける悲劇的な結末 ― その時、皮肉にもナディーヌが口にした言葉は・・・。
本作品はパリで大ヒットし、ズラウスキーがヨーロッパで評価されるきっかけになった(後にフランスで、映画作家としてスムーズに活動再開できたのは本作の成功があったからだ)。
ズラウスキーはこの成功に意気揚々と祖国に戻るが、そこで彼を待ち受けていたものは・・・。
【1977−1987】 『シルバー・グローブ ―銀の惑星―』〔日本未公開・ビデオ発売のみ〕
ズラウスキーの大叔父にあたる作家イェジー・ズラウスキーの「月・三部作」(あのスタニスワフ・レムが影響を受け“SF作家になるきっかけとなった”といわれる小説だ)の第一部と第二部を中心に映像化した壮大なSF。宇宙飛行士たちが未知の惑星に不時着し、安住の地を求める旅路と、その子孫の繁栄(?)を描いた年代記。
全てを失った宇宙飛行士たちによる、文明の再現。生命(第2世代)の誕生、コミュニティーの構築、宗教の黎明−豊穣の女神−稲作−文明の勃興、新大陸の発見、シェルン(異民族の怪物)の襲撃・・・明らかにこれは、ズラウスキー一族による創世記への挑戦だ。そしてそのイメージは、キリスト教が道徳や倫理をもたらす前にこの世を支配していた、荒々しい生存本能の塊 ― 野蛮な原初的生命力とアヴァンギャルドの融合である。
ホドロフスキーやパゾリーニ、D.リンチの映画を濃縮したような、前衛と原始が交じり合ったようなアート感覚。
ズラウスキーは黒澤明のファンで、「蜘蛛巣城」で山田五十鈴が血の幻影に怯えるシーンを、自ら再現できるほどだというが、カブキのような奇抜なメイクで、見たこともないようなファンタスティックな形の髷やフンドシといった、日本文化を意識したようなビジュアルも登場する。
そして、鬼気迫る、取り憑かれたような演出はここでも健在。めまぐるしい手持ちカメラ、這いずり回り、のた打ち回り、狂ったように果てなき自問自答を繰り広げる登場人物たち。そして、どうやら人間の自己投影、とおぼしき怪物シェルンの正体・・・SFといいつつ、物語はエンターテイメントではなく、ひたすら思索の迷宮を彷徨い続ける。「スターウォーズ」が公開された年に、東欧の片隅で人知れずこのような凄まじいSFが製作されていた事は非常に興味深いのだが・・・。
狂信的ともいえる映画制作への没入、超過する膨大な制作費、宗教や文明への、怖れ知らずな挑戦・・・、ポーランド文化庁副長官と映画省次官が恐れたのは何だったのか―「製作中止」を決定。ズラウスキーは、2度に亘って煮え湯を飲まされる事となった。
傷心のズラウスキーは映画製作の自由を求め、故国を捨てて渡仏。以降、フランスで映画活動を続けていたが、製作中止令から10年後、民主化の波も手伝ってか、ポーランド政府はようやく態度を軟化、製作再開の許可を出す。しかし、衣装や小道具のほとんどは破棄され、俳優は歳をとり、10年の歳月を経ての撮影再開は事実上不可能だった。
ズラウスキーはカメラを手にポーランドを駆け巡り、街並みや人々の顔、風景などを撮影。製作中断で未撮だった本編の5分の1を、現代の街や人々の映像と自らのナレーションで補完し、強引に完成させた。
映画のラストでは、製作が中止された経緯と、命令に反して衣装の一部を家に隠していたスタッフ達への感謝の言葉で綴られる。やがて、ショーウィンドウに映る一人の男 ― 「私の名はアンジェイ・ズラウスキー、『シルバー・グローブ』の監督だ」そして彼は、逃げるように走り去っていく・・・。
中断してしまった映画を、こうした方法で完成させたものとしては、同ポーランドのアンジェイ・ムンクの「パサジェルカ」がある。これは監督が撮影中に亡くなったため、友人達が写真とナレーションで補完したものだ。ズラウスキーが「シルバー・グローブ」を似た手法で完成させた理由は、単純なものではないと思う。映画製作を滅茶苦茶にしたポーランド政府への怒りもあったと思うが、一方で処女作「夜の第三部分」で賞の名に冠された、アンジェイ・ムンク監督へのオマージュでもあったのではないかと、筆者は密かに思っている。
ズラウスキーの映画には、陶酔に似た何かがある。それは決して心地の良い陶酔ではなく、肌の下に潜り込み、精神の奥深くを、いやおうなしにかきまわす・・・いわばドラッグの様なトリップ感、だろうか。筆者のように、その狂気にシンクロする人間は魅入ってしまうのだが、理解できない人には、とほうもなく苦痛で不愉快、そして意味不明に感じるようだ。
ズラウスキー自身は戦時中に生まれたため、戦争の記憶はない。父が賢く立ち回ったため強制収容所に入れられる事もなく、少年時代はパリで暮らしていた事もあり、ことさら不幸な人生を送ってきたようには思えない(もちろん詳しい事は判らないが)。故に、デビューから一貫して彼の映画の中に存在する強迫観念めいた自己探求や、狂気の正体は第三者から視ると謎、である。「私の映画は、私自身の苦悩についてのもので、女性(のキャラクター?)は、それを描くための手段である」といった発言はあるのだが、若い頃から女性関係に悩まされていたのだろうか。それはズラウスキー本人にしか解らない事、である。
インターネット時代に突入し、一般にあまり知られていないようなカルトな監督も、在野の凄い研究家たちがHPやブログなどで紹介するようになったが、なぜかズラウスキーに関しては、これといったものが存在せず、ウィキペディアですら貧弱な情報しか載っていない(本レビュー初掲載時の2011年時点での話状況)。しかも情報や表現があいまいである。「夜の第三部分」で例えると、シラミに血を吸わせるのを「人体実験」と表現している資料ばかりで、何の実験かよく判らない。それは実験というよりは、当時猛威をふるってナチス・ドイツを悩ませていた発疹チフスのワクチンをつくるためのものだったのだ。― そうした意味も含め、ズラウスキー作品について知りたい、と考えている人の役に立てるレビューが書ければと思い、このような超長文になってしまった(掲載されるかどうか、不安になってきた)。
ズラウスキーに関しては情報があまりにも乏しく、中には正確ではない表現もあるかもしれないが、単なるコピペではなく、資料を照らし合わせて検証し、判断しながらの記述であることは理解して頂きたい。ズラウスキー自身のインタビュー映像や、ヨーロッパ映画史に詳しく、ズラウスキーにもインタビューをしているDaniel Bird氏の著述などを参考にしているので、甚だしく間違ったものはない、とは思う。
このレビューが、まだ国内でソフト化されていない初期作品がDVD化されるきっかけになれば、これに勝る幸せはない。フランス時代でも、’89年に「ボリス・ゴドゥノフ」を撮っているという情報がある。かなり忠実にオペラ形式で製作された映画らしいが、相変わらずスキャンダラスな内容で物議をかもしたらしい(苦笑)しかし、ズラウスキーのボリス・ゴドゥノフ!観たいものだ。
ソフト会社の担当者の方々の映画愛と、たゆまぬ努力に期待したい。
追記:ズラウスキー初期作品、を謳いながら、ポーランドというキーワードに囚われて「L'important c'est d'aimer」をうっかり抜かしてしまうという失態に気づいてしまった。よって第3版は大幅改稿、一本映画を追加した(これがプラスワン、の意)。今後もズラウスキーの公式(公認?)サイトなどを参照しつつ、追って追加情報、間違いの修正なども随時していく予定。また、色々と調べているうちに「ポゼッション」について発見した事があるので、ズラウスキー・クロニクル#2として「ポゼッション」のページにレビューを書きました。実はほとんど私小説、と思しき作品だったのである・・・!?
追記2:2013年11月から12月にかけて、「ポーランド映画祭2013」が東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催され、実に18年ぶりに『夜の第三部分』が日本で上映された。会場はほぼ満席状態で、ズラウスキーが決して忘れられていない事を証明し、感無量の思いだった。
筆者が本レビューで叫んだことがきっかけになったかどうかは判らないが、最近国内でもズラウスキー再評価を巡る状況は、非常に地味ながらも少しずつ改善を見せている。ウィキペディアは控えめな文章量ながらも、ズラウスキーの経歴やフィルモグラフィーが再編集され詳しく、正確な記述になった(マウゴジャータや息子クサヴェリについて、またフィルモグラフィは『大切なのは愛すること』や『ボリス・ゴドゥノフ』が加わった)。そして、『80年代悪趣味ビデオ学の逆襲』(2013年、洋泉社・刊)では、『シルバー・グローブ』に関して、本稿を遥かに超える素晴らしい記事が船積寛泰氏によって書かれ、久々にプロの仕事の底力に唸らされた。これまた感無量。大学生が書いたとおぼしき、ズラウスキーに関する論文もネット上で読むことができるようになった。ただ、日本でソフト化された映画に留まる内容なのはやや残念と言わざるを得ない。
本レビューを最初に書いた時は、発疹チフスワクチンの開発がどのように行われていたか、ネットで調べてもどこにもなかったが、「ポーランド映画祭2013」のパンフに具体的に記述されていたので、それを参考に、本稿でもあいまいだった部分を弱冠修正した。
『夜の第三部分』『悪魔』ほか作品の、日本でのソフト化を願いつつ −
【最終更新日:2013年12/12・第4版】
参考資料:「ポーランド映画史」マレク・ハルトフ著/「夜の第三部分」輸入版DVD(発売元Second Run DVD・PAL)収録のズラウスキーインタビュー、Daniel Bird氏によるライナーノーツ/「私生活のない女」パンフ(ズラウスキーの経歴に関しては、ここに掲載されているものが一番詳しい)/「悪魔」日本公開時の手作りパンフ(制作者に感謝!今となっては大変貴重な資料です)/ズラウスキー公式サイト、及び国内外の関連サイト/そして・・・ここに新たに「ポーランド映画祭2013」パンフレットと「80年代悪趣味ビデオ学の逆襲」を追加したい。
尚、映画の年代については、資料によってまちまちなので基本的にズラウスキー公式サイトの数字を採択しています。
シルバー・グローブ [VHS]
アンジェイ・ズラウスキーについて語りたい事はあまりにも多く、書くべきページはあまりにも少ない。代表作「ポゼッション」はめでたくスティングレイから再発されたが、最も重要な初期作品は、国内ではほとんどソフト化されていない(VHS時代にもだ!)唯一、と云っていい「シルバー・グローブ」も未だDVD化される事なく絶版のまま。という事で、この際ここに「ズラウスキー・クロニクル」と題して初期3作品(プラスワン)のレビューを展開する。ただでさえ長文で普段からカスタマーの方々のひんしゅくを買っているであろうが、今回は間違いなく最長レビューになるであろう。
さて、ここから先は正常な精神の持ち主は「風と共に去りぬ」や「サウンド・オブ・ミュージック」といったまっとうな作品のページへ退避する事をオススメする。冥府回廊を巡る覚悟ができている方のみ、ご同行頂こう。
いざ、「向こう側」の世界への扉を開かん。
【1971年】 『夜の第三部分』〔アンジェイ・ムンク賞 最優秀新人監督賞受賞('72)他/1995年、シネマアルゴ新宿にて公開〕
第二次世界大戦下のポーランド。主人公ミハウ(レシェック・テレシンスキ)はある日、ナチスの騎兵によって妻と子供を殺されてしまう。抵抗運動に身を投じるうち、ミハウはある日、彼の妻に生き写しの女性マルタ(マウゴジャータ・ブラウネック)と出会う。彼女は産気づき、出産。ミハウはマルタと赤ん坊を守ろうと決め、ナチスの発疹チフスのワクチン作りのために協力する。それは、シラミに自分の血を吸わせる(マッチ箱ほどのサイズの箱にシラミが詰め込められ、片面が網状になっていて、その部分を肌に密着させて血を吸わせる。かなり気色悪い・・・)という生体提供だった。やがてミハウは拘束中の彼女の夫も助けようと考え、病院に忍び込む。しかしそこでミハウは、信じられない光景を目撃する・・・。
この物語は、ズラウスキーの父・ミロスラフの体験を元にしている。あるとき父に戦争体験を語ってほしいとねだったら、父は語る代わりに物語を書いたという。それを脚色し、映画にしたのが本作だ。「この映画の中で描かれているものは、全て真実である」とズラウスキーは言う。それは、ノンフィクションという意味ではなく、ナチスのワクチン作りに協力する、といった映画に出てくる事柄である。
実はこの映画は、旧ポーランド領ルブフ(現ウクライナ領リヴィウ)にあった「ルドルフ・ヴァイグル研究所」について描かれた、おそらく唯一の映画、なのである。これは、ナチスドイツ国防軍に発疹チフスのワクチンを供給していた施設で、占領下ポーランドの知識階級の人たち(著名な数学者や音楽家もいたという)がワクチンを作るための「シラミへの血液供給者」として雇われていた。ヴァイグルはそうした知識人やレジスタンスの闘士らを雇うことで、ナチスから彼らを匿ったのである。血液提供者に配布された手帳を持つことは身の安全の保障を意味し、ナチス占領下で地下活動を行っていたミロスラフにとっても、格好の隠れ蓑になったという。
血液提供者の血を吸ったシラミは、発疹チフスの細菌に感染させられ、細菌はシラミの胃細胞内で繁殖したあと、石炭酸で殺される。そしてシラミの腹が切り裂かれて抗体を採取し、ワクチンが作られる。この過程が詳細に描かれ、戦時下のポーランドで行われていた知識階級の奇妙な保護活動について描いた、資料的価値が高い映画でもある。
若きズラウスキーのデビューは、喝采を持って迎え入れられ、数々の賞を受賞した。そして、この処女作で早くもズラウスキーのスタイルは完成されており、何かに取り憑かれたような、強迫観念的で狂気漂う世界が展開。特に、シラミを細菌に感染させるシーンの気色悪さといったら・・・顕微鏡カメラの大写しの中で、シラミのケツに注射針が刺され、身悶えするシラミ。そしてその後、シラミは顕微鏡の中で、ピンセットで腹をつぶされる・・・観ているだけで「もうやめてくれ〜!!」と叫びそうになってしまう。ラストの病院も、目を背けたくなるような死臭漂うシーンが次々と展開する。また、この時代にほとんど無かった手持ちカメラで撮影をし、疾走するズラウスキー・カメラワークは、早くもこの第1作で芽吹きはじめている。
ズラウスキーは、映画の完成後、主演女優マウゴジャータ・ブラウネックと結婚。(その後離婚)彼女との間に生まれた息子クサヴェリも、映画監督になった。
「夜の第三部分」の物語形式を説明する事は、そのままネタバレを意味してしまうので多くは語らないが、人々の喝采に包まれ、ここに「呪われた映画監督」が高らかな産声を挙げた、ことだけは間違いない。
【1972年】 『悪魔』〔1989年、新宿武蔵野館にて公開〕
「女は笑い、男は狂う。愛と狂気はいつも紙一重・・・。」
これはレイトショー公開された時のキャッチコピーだが、その文句に偽りなし。「ポゼッション」すら凌駕する、ズラウスキー最狂映画である。
18世紀末、ポーランドが他国に分割占領(第二次ポーランド分割)されようとしていた前夜、国土はロシアやプロシアなどの軍事勢力に蹂躙されていた。愛国心から反乱を起こし、捕えられていたヤクブ(レシェック・テレシンスキ)をプロシア人の謎の男(ヴォイチェフ・プシォニャック)が助け出す。男は、ワルシャワへ向かおうとするヤクブを、故郷へ帰るよう巧みに説得する。しかし、生家へ戻る旅の途中、婚約者(マウゴジャータ・ブラウネック)はかつての友に寝取られ、彼女は精神に異常をきたしていた。
地獄のような祖国をさまようヤクブもまた精神の均衡を崩していき、謎の男から手渡されたカミソリで母や妹たちを衝動的に殺していく・・・さまよえる殺人者と化すヤクブ。彼を導く謎の男は、ヤクブから反乱の共謀者の名前を聞き出そうとする。男の目的は?そして彼らの行く手に待ち受ける運命は・・・?
第2作にしてトレードマークと化した、めまぐるしく動き回る手持ちカメラ。初期ズラウスキー作品のミューズ、マウゴジャータ・ブラウネックは「ポゼッション」のイザベル・アジャーニそっくの身振り手振りで嗤い、狂う(あれはアジャーニの演技力ではなく、ズラウスキーが指導していたのだ!)。どす黒い血のイメージ。荒涼とした風景の中、主人公の歩んだ後に残るのは累々たる屍のみ・・・。
この作品は完成後、「あまりにも過激で暴力的、かつ残忍」という理由で「上映禁止」処分を受けてしまう。早くも第2作にして、ズラウスキーは「呪われた映画作家」の烙印を押されてしまったのだ。
この映画を難解にしているのは、ズラウスキーの、この作品テーマへのアプローチがコントロール不能に陥り、暴走していくところである。日本公開時、パンフと呼ぶにはあまりにもハンドメイドな白黒コピーの、6ページ程の資料が配布された(笑ってはいけない、貴重な資料だ!)。その中では、主人公ヤクブを導く謎の男を「スパイに身をやつした悪魔」と意味不明な言葉で表現している。なぜ悪魔がスパイにならなければいけないのか?一体誰のスパイなのか?そもそもこの男を「悪魔」と言ってしまうのは、実はストーリー展開上ネタバレになってしまうのだが・・・。
現在この映画について調べてみると、どの解説も一様に「悪魔」と断言している。― この映画の資料はあまりにも乏しく、コピペを繰り返し劣化した情報が氾濫するネット上ではなおさら、紹介文が抽象的になってしまっている。そこで色々調べた結果、海外のサイトでズラウスキーのこの映画へのコメントを発見した。それによると、
この映画は、1968年にポーランドで起こった、検閲への異議や表現の自由を求めた学生デモの鎮圧事件(ポーランド秘密警察の工作員がデモを扇動した)への、ズラウスキーの怒りの抗議を秘めた、寓話的な側面を持つ作品である、と。故にズラウスキーは、この映画が公開禁止となった真の理由は「暴力的な表現」ではなく「政治的な理由」に違いない、と信じているらしい。
とはいえ、この映画は逆立ちして観ても社会派などには見えない。スパイ(工作員?)と悪魔、という解釈の難しい、二面性を持つキャラクターを配し(この男もまた、自問自答を繰り返す。そんな悪魔見たことない・・・)そして愛国者である主人公が狂い、殺人者となっていく不条理な展開。デビュー時からその作品の裡にのたうつ「狂気」の方がいつしか「思惑」をおしのけ、どんどん暴走。背徳・冒涜・発狂・哄笑・流血・絶叫・・・と熱にうかされたように物語は破滅に向かってつき進んでいく・・・悪魔とは一体なにを象徴しているのか?この映画の結末に、政治的メッセージを見出すのは(その前に、どう解釈していいのか)困難だ。ひたすら、ズラウスキーの放つ狂気に身を委ねよ。
1988年、16年の歳月を経てようやく解禁。ワルシャワのアートシアターで公開され、翌年日本でもレイトショー公開。しかし・・・、
私事で恐縮だが、映画作家ズラウスキーにかけられた「呪い」は、創り手のみならず観客である筆者の上にも降りかかる事となった。レイトショー公開の、よりによって最終日に観に行ったのだが、途中で映写機が故障、「上映禁止」ならぬ「上映中止」となってしまった。それから20年近くもの間、この映画の続きが観たくてもがき続けていた・・・ようやく輸入版DVDを手に入れてその「呪い」を解くまでの永かったこと!・・・いや、観終わった後もスッキリはしないの、だけど(苦笑)。
【1975】 『L'important c'est d'aimer(大切なのは愛すること)』〔フランス映画・日本未公開〕
主演:ロミー・シュナイダー、ファビオ・テスティ、クラウス・キンスキー
「夜の第三部分」の上映のためパリを訪れたズラウスキーは、1本の映画の監督を任される事に。それが本作である。
「愛してる」のセリフすら満足に言えず、撮影現場でNGを連発する、売れない女優ナディーヌ(R.シュナイダー)。そのロケ風景を撮影しているカメラマンのセルヴェ(F.テスティ)は彼女が既婚者だと知りつつも、次第に愛するようになる。そして、女優としての自信を喪失したナディーヌに大役を与えるため、セルヴェは裏契約を結ぶが、そのために彼は闇社会から大金を借りることになる。2人を待ち受ける悲劇的な結末 ― その時、皮肉にもナディーヌが口にした言葉は・・・。
本作品はパリで大ヒットし、ズラウスキーがヨーロッパで評価されるきっかけになった(後にフランスで、映画作家としてスムーズに活動再開できたのは本作の成功があったからだ)。
ズラウスキーはこの成功に意気揚々と祖国に戻るが、そこで彼を待ち受けていたものは・・・。
【1977−1987】 『シルバー・グローブ ―銀の惑星―』〔日本未公開・ビデオ発売のみ〕
ズラウスキーの大叔父にあたる作家イェジー・ズラウスキーの「月・三部作」(あのスタニスワフ・レムが影響を受け“SF作家になるきっかけとなった”といわれる小説だ)の第一部と第二部を中心に映像化した壮大なSF。宇宙飛行士たちが未知の惑星に不時着し、安住の地を求める旅路と、その子孫の繁栄(?)を描いた年代記。
全てを失った宇宙飛行士たちによる、文明の再現。生命(第2世代)の誕生、コミュニティーの構築、宗教の黎明−豊穣の女神−稲作−文明の勃興、新大陸の発見、シェルン(異民族の怪物)の襲撃・・・明らかにこれは、ズラウスキー一族による創世記への挑戦だ。そしてそのイメージは、キリスト教が道徳や倫理をもたらす前にこの世を支配していた、荒々しい生存本能の塊 ― 野蛮な原初的生命力とアヴァンギャルドの融合である。
ホドロフスキーやパゾリーニ、D.リンチの映画を濃縮したような、前衛と原始が交じり合ったようなアート感覚。
ズラウスキーは黒澤明のファンで、「蜘蛛巣城」で山田五十鈴が血の幻影に怯えるシーンを、自ら再現できるほどだというが、カブキのような奇抜なメイクで、見たこともないようなファンタスティックな形の髷やフンドシといった、日本文化を意識したようなビジュアルも登場する。
そして、鬼気迫る、取り憑かれたような演出はここでも健在。めまぐるしい手持ちカメラ、這いずり回り、のた打ち回り、狂ったように果てなき自問自答を繰り広げる登場人物たち。そして、どうやら人間の自己投影、とおぼしき怪物シェルンの正体・・・SFといいつつ、物語はエンターテイメントではなく、ひたすら思索の迷宮を彷徨い続ける。「スターウォーズ」が公開された年に、東欧の片隅で人知れずこのような凄まじいSFが製作されていた事は非常に興味深いのだが・・・。
狂信的ともいえる映画制作への没入、超過する膨大な制作費、宗教や文明への、怖れ知らずな挑戦・・・、ポーランド文化庁副長官と映画省次官が恐れたのは何だったのか―「製作中止」を決定。ズラウスキーは、2度に亘って煮え湯を飲まされる事となった。
傷心のズラウスキーは映画製作の自由を求め、故国を捨てて渡仏。以降、フランスで映画活動を続けていたが、製作中止令から10年後、民主化の波も手伝ってか、ポーランド政府はようやく態度を軟化、製作再開の許可を出す。しかし、衣装や小道具のほとんどは破棄され、俳優は歳をとり、10年の歳月を経ての撮影再開は事実上不可能だった。
ズラウスキーはカメラを手にポーランドを駆け巡り、街並みや人々の顔、風景などを撮影。製作中断で未撮だった本編の5分の1を、現代の街や人々の映像と自らのナレーションで補完し、強引に完成させた。
映画のラストでは、製作が中止された経緯と、命令に反して衣装の一部を家に隠していたスタッフ達への感謝の言葉で綴られる。やがて、ショーウィンドウに映る一人の男 ― 「私の名はアンジェイ・ズラウスキー、『シルバー・グローブ』の監督だ」そして彼は、逃げるように走り去っていく・・・。
中断してしまった映画を、こうした方法で完成させたものとしては、同ポーランドのアンジェイ・ムンクの「パサジェルカ」がある。これは監督が撮影中に亡くなったため、友人達が写真とナレーションで補完したものだ。ズラウスキーが「シルバー・グローブ」を似た手法で完成させた理由は、単純なものではないと思う。映画製作を滅茶苦茶にしたポーランド政府への怒りもあったと思うが、一方で処女作「夜の第三部分」で賞の名に冠された、アンジェイ・ムンク監督へのオマージュでもあったのではないかと、筆者は密かに思っている。
ズラウスキーの映画には、陶酔に似た何かがある。それは決して心地の良い陶酔ではなく、肌の下に潜り込み、精神の奥深くを、いやおうなしにかきまわす・・・いわばドラッグの様なトリップ感、だろうか。筆者のように、その狂気にシンクロする人間は魅入ってしまうのだが、理解できない人には、とほうもなく苦痛で不愉快、そして意味不明に感じるようだ。
ズラウスキー自身は戦時中に生まれたため、戦争の記憶はない。父が賢く立ち回ったため強制収容所に入れられる事もなく、少年時代はパリで暮らしていた事もあり、ことさら不幸な人生を送ってきたようには思えない(もちろん詳しい事は判らないが)。故に、デビューから一貫して彼の映画の中に存在する強迫観念めいた自己探求や、狂気の正体は第三者から視ると謎、である。「私の映画は、私自身の苦悩についてのもので、女性(のキャラクター?)は、それを描くための手段である」といった発言はあるのだが、若い頃から女性関係に悩まされていたのだろうか。それはズラウスキー本人にしか解らない事、である。
インターネット時代に突入し、一般にあまり知られていないようなカルトな監督も、在野の凄い研究家たちがHPやブログなどで紹介するようになったが、なぜかズラウスキーに関しては、これといったものが存在せず、ウィキペディアですら貧弱な情報しか載っていない(本レビュー初掲載時の2011年時点での話状況)。しかも情報や表現があいまいである。「夜の第三部分」で例えると、シラミに血を吸わせるのを「人体実験」と表現している資料ばかりで、何の実験かよく判らない。それは実験というよりは、当時猛威をふるってナチス・ドイツを悩ませていた発疹チフスのワクチンをつくるためのものだったのだ。― そうした意味も含め、ズラウスキー作品について知りたい、と考えている人の役に立てるレビューが書ければと思い、このような超長文になってしまった(掲載されるかどうか、不安になってきた)。
ズラウスキーに関しては情報があまりにも乏しく、中には正確ではない表現もあるかもしれないが、単なるコピペではなく、資料を照らし合わせて検証し、判断しながらの記述であることは理解して頂きたい。ズラウスキー自身のインタビュー映像や、ヨーロッパ映画史に詳しく、ズラウスキーにもインタビューをしているDaniel Bird氏の著述などを参考にしているので、甚だしく間違ったものはない、とは思う。
このレビューが、まだ国内でソフト化されていない初期作品がDVD化されるきっかけになれば、これに勝る幸せはない。フランス時代でも、’89年に「ボリス・ゴドゥノフ」を撮っているという情報がある。かなり忠実にオペラ形式で製作された映画らしいが、相変わらずスキャンダラスな内容で物議をかもしたらしい(苦笑)しかし、ズラウスキーのボリス・ゴドゥノフ!観たいものだ。
ソフト会社の担当者の方々の映画愛と、たゆまぬ努力に期待したい。
追記:ズラウスキー初期作品、を謳いながら、ポーランドというキーワードに囚われて「L'important c'est d'aimer」をうっかり抜かしてしまうという失態に気づいてしまった。よって第3版は大幅改稿、一本映画を追加した(これがプラスワン、の意)。今後もズラウスキーの公式(公認?)サイトなどを参照しつつ、追って追加情報、間違いの修正なども随時していく予定。また、色々と調べているうちに「ポゼッション」について発見した事があるので、ズラウスキー・クロニクル#2として「ポゼッション」のページにレビューを書きました。実はほとんど私小説、と思しき作品だったのである・・・!?
追記2:2013年11月から12月にかけて、「ポーランド映画祭2013」が東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催され、実に18年ぶりに『夜の第三部分』が日本で上映された。会場はほぼ満席状態で、ズラウスキーが決して忘れられていない事を証明し、感無量の思いだった。
筆者が本レビューで叫んだことがきっかけになったかどうかは判らないが、最近国内でもズラウスキー再評価を巡る状況は、非常に地味ながらも少しずつ改善を見せている。ウィキペディアは控えめな文章量ながらも、ズラウスキーの経歴やフィルモグラフィーが再編集され詳しく、正確な記述になった(マウゴジャータや息子クサヴェリについて、またフィルモグラフィは『大切なのは愛すること』や『ボリス・ゴドゥノフ』が加わった)。そして、『80年代悪趣味ビデオ学の逆襲』(2013年、洋泉社・刊)では、『シルバー・グローブ』に関して、本稿を遥かに超える素晴らしい記事が船積寛泰氏によって書かれ、久々にプロの仕事の底力に唸らされた。これまた感無量。大学生が書いたとおぼしき、ズラウスキーに関する論文もネット上で読むことができるようになった。ただ、日本でソフト化された映画に留まる内容なのはやや残念と言わざるを得ない。
本レビューを最初に書いた時は、発疹チフスワクチンの開発がどのように行われていたか、ネットで調べてもどこにもなかったが、「ポーランド映画祭2013」のパンフに具体的に記述されていたので、それを参考に、本稿でもあいまいだった部分を弱冠修正した。
『夜の第三部分』『悪魔』ほか作品の、日本でのソフト化を願いつつ −
【最終更新日:2013年12/12・第4版】
参考資料:「ポーランド映画史」マレク・ハルトフ著/「夜の第三部分」輸入版DVD(発売元Second Run DVD・PAL)収録のズラウスキーインタビュー、Daniel Bird氏によるライナーノーツ/「私生活のない女」パンフ(ズラウスキーの経歴に関しては、ここに掲載されているものが一番詳しい)/「悪魔」日本公開時の手作りパンフ(制作者に感謝!今となっては大変貴重な資料です)/ズラウスキー公式サイト、及び国内外の関連サイト/そして・・・ここに新たに「ポーランド映画祭2013」パンフレットと「80年代悪趣味ビデオ学の逆襲」を追加したい。
尚、映画の年代については、資料によってまちまちなので基本的にズラウスキー公式サイトの数字を採択しています。
さて、ここから先は正常な精神の持ち主は「風と共に去りぬ」や「サウンド・オブ・ミュージック」といったまっとうな作品のページへ退避する事をオススメする。冥府回廊を巡る覚悟ができている方のみ、ご同行頂こう。
いざ、「向こう側」の世界への扉を開かん。
【1971年】 『夜の第三部分』〔アンジェイ・ムンク賞 最優秀新人監督賞受賞('72)他/1995年、シネマアルゴ新宿にて公開〕
第二次世界大戦下のポーランド。主人公ミハウ(レシェック・テレシンスキ)はある日、ナチスの騎兵によって妻と子供を殺されてしまう。抵抗運動に身を投じるうち、ミハウはある日、彼の妻に生き写しの女性マルタ(マウゴジャータ・ブラウネック)と出会う。彼女は産気づき、出産。ミハウはマルタと赤ん坊を守ろうと決め、ナチスの発疹チフスのワクチン作りのために協力する。それは、シラミに自分の血を吸わせる(マッチ箱ほどのサイズの箱にシラミが詰め込められ、片面が網状になっていて、その部分を肌に密着させて血を吸わせる。かなり気色悪い・・・)という生体提供だった。やがてミハウは拘束中の彼女の夫も助けようと考え、病院に忍び込む。しかしそこでミハウは、信じられない光景を目撃する・・・。
この物語は、ズラウスキーの父・ミロスラフの体験を元にしている。あるとき父に戦争体験を語ってほしいとねだったら、父は語る代わりに物語を書いたという。それを脚色し、映画にしたのが本作だ。「この映画の中で描かれているものは、全て真実である」とズラウスキーは言う。それは、ノンフィクションという意味ではなく、ナチスのワクチン作りに協力する、といった映画に出てくる事柄である。
実はこの映画は、旧ポーランド領ルブフ(現ウクライナ領リヴィウ)にあった「ルドルフ・ヴァイグル研究所」について描かれた、おそらく唯一の映画、なのである。これは、ナチスドイツ国防軍に発疹チフスのワクチンを供給していた施設で、占領下ポーランドの知識階級の人たち(著名な数学者や音楽家もいたという)がワクチンを作るための「シラミへの血液供給者」として雇われていた。ヴァイグルはそうした知識人やレジスタンスの闘士らを雇うことで、ナチスから彼らを匿ったのである。血液提供者に配布された手帳を持つことは身の安全の保障を意味し、ナチス占領下で地下活動を行っていたミロスラフにとっても、格好の隠れ蓑になったという。
血液提供者の血を吸ったシラミは、発疹チフスの細菌に感染させられ、細菌はシラミの胃細胞内で繁殖したあと、石炭酸で殺される。そしてシラミの腹が切り裂かれて抗体を採取し、ワクチンが作られる。この過程が詳細に描かれ、戦時下のポーランドで行われていた知識階級の奇妙な保護活動について描いた、資料的価値が高い映画でもある。
若きズラウスキーのデビューは、喝采を持って迎え入れられ、数々の賞を受賞した。そして、この処女作で早くもズラウスキーのスタイルは完成されており、何かに取り憑かれたような、強迫観念的で狂気漂う世界が展開。特に、シラミを細菌に感染させるシーンの気色悪さといったら・・・顕微鏡カメラの大写しの中で、シラミのケツに注射針が刺され、身悶えするシラミ。そしてその後、シラミは顕微鏡の中で、ピンセットで腹をつぶされる・・・観ているだけで「もうやめてくれ〜!!」と叫びそうになってしまう。ラストの病院も、目を背けたくなるような死臭漂うシーンが次々と展開する。また、この時代にほとんど無かった手持ちカメラで撮影をし、疾走するズラウスキー・カメラワークは、早くもこの第1作で芽吹きはじめている。
ズラウスキーは、映画の完成後、主演女優マウゴジャータ・ブラウネックと結婚。(その後離婚)彼女との間に生まれた息子クサヴェリも、映画監督になった。
「夜の第三部分」の物語形式を説明する事は、そのままネタバレを意味してしまうので多くは語らないが、人々の喝采に包まれ、ここに「呪われた映画監督」が高らかな産声を挙げた、ことだけは間違いない。
【1972年】 『悪魔』〔1989年、新宿武蔵野館にて公開〕
「女は笑い、男は狂う。愛と狂気はいつも紙一重・・・。」
これはレイトショー公開された時のキャッチコピーだが、その文句に偽りなし。「ポゼッション」すら凌駕する、ズラウスキー最狂映画である。
18世紀末、ポーランドが他国に分割占領(第二次ポーランド分割)されようとしていた前夜、国土はロシアやプロシアなどの軍事勢力に蹂躙されていた。愛国心から反乱を起こし、捕えられていたヤクブ(レシェック・テレシンスキ)をプロシア人の謎の男(ヴォイチェフ・プシォニャック)が助け出す。男は、ワルシャワへ向かおうとするヤクブを、故郷へ帰るよう巧みに説得する。しかし、生家へ戻る旅の途中、婚約者(マウゴジャータ・ブラウネック)はかつての友に寝取られ、彼女は精神に異常をきたしていた。
地獄のような祖国をさまようヤクブもまた精神の均衡を崩していき、謎の男から手渡されたカミソリで母や妹たちを衝動的に殺していく・・・さまよえる殺人者と化すヤクブ。彼を導く謎の男は、ヤクブから反乱の共謀者の名前を聞き出そうとする。男の目的は?そして彼らの行く手に待ち受ける運命は・・・?
第2作にしてトレードマークと化した、めまぐるしく動き回る手持ちカメラ。初期ズラウスキー作品のミューズ、マウゴジャータ・ブラウネックは「ポゼッション」のイザベル・アジャーニそっくの身振り手振りで嗤い、狂う(あれはアジャーニの演技力ではなく、ズラウスキーが指導していたのだ!)。どす黒い血のイメージ。荒涼とした風景の中、主人公の歩んだ後に残るのは累々たる屍のみ・・・。
この作品は完成後、「あまりにも過激で暴力的、かつ残忍」という理由で「上映禁止」処分を受けてしまう。早くも第2作にして、ズラウスキーは「呪われた映画作家」の烙印を押されてしまったのだ。
この映画を難解にしているのは、ズラウスキーの、この作品テーマへのアプローチがコントロール不能に陥り、暴走していくところである。日本公開時、パンフと呼ぶにはあまりにもハンドメイドな白黒コピーの、6ページ程の資料が配布された(笑ってはいけない、貴重な資料だ!)。その中では、主人公ヤクブを導く謎の男を「スパイに身をやつした悪魔」と意味不明な言葉で表現している。なぜ悪魔がスパイにならなければいけないのか?一体誰のスパイなのか?そもそもこの男を「悪魔」と言ってしまうのは、実はストーリー展開上ネタバレになってしまうのだが・・・。
現在この映画について調べてみると、どの解説も一様に「悪魔」と断言している。― この映画の資料はあまりにも乏しく、コピペを繰り返し劣化した情報が氾濫するネット上ではなおさら、紹介文が抽象的になってしまっている。そこで色々調べた結果、海外のサイトでズラウスキーのこの映画へのコメントを発見した。それによると、
この映画は、1968年にポーランドで起こった、検閲への異議や表現の自由を求めた学生デモの鎮圧事件(ポーランド秘密警察の工作員がデモを扇動した)への、ズラウスキーの怒りの抗議を秘めた、寓話的な側面を持つ作品である、と。故にズラウスキーは、この映画が公開禁止となった真の理由は「暴力的な表現」ではなく「政治的な理由」に違いない、と信じているらしい。
とはいえ、この映画は逆立ちして観ても社会派などには見えない。スパイ(工作員?)と悪魔、という解釈の難しい、二面性を持つキャラクターを配し(この男もまた、自問自答を繰り返す。そんな悪魔見たことない・・・)そして愛国者である主人公が狂い、殺人者となっていく不条理な展開。デビュー時からその作品の裡にのたうつ「狂気」の方がいつしか「思惑」をおしのけ、どんどん暴走。背徳・冒涜・発狂・哄笑・流血・絶叫・・・と熱にうかされたように物語は破滅に向かってつき進んでいく・・・悪魔とは一体なにを象徴しているのか?この映画の結末に、政治的メッセージを見出すのは(その前に、どう解釈していいのか)困難だ。ひたすら、ズラウスキーの放つ狂気に身を委ねよ。
1988年、16年の歳月を経てようやく解禁。ワルシャワのアートシアターで公開され、翌年日本でもレイトショー公開。しかし・・・、
私事で恐縮だが、映画作家ズラウスキーにかけられた「呪い」は、創り手のみならず観客である筆者の上にも降りかかる事となった。レイトショー公開の、よりによって最終日に観に行ったのだが、途中で映写機が故障、「上映禁止」ならぬ「上映中止」となってしまった。それから20年近くもの間、この映画の続きが観たくてもがき続けていた・・・ようやく輸入版DVDを手に入れてその「呪い」を解くまでの永かったこと!・・・いや、観終わった後もスッキリはしないの、だけど(苦笑)。
【1975】 『L'important c'est d'aimer(大切なのは愛すること)』〔フランス映画・日本未公開〕
主演:ロミー・シュナイダー、ファビオ・テスティ、クラウス・キンスキー
「夜の第三部分」の上映のためパリを訪れたズラウスキーは、1本の映画の監督を任される事に。それが本作である。
「愛してる」のセリフすら満足に言えず、撮影現場でNGを連発する、売れない女優ナディーヌ(R.シュナイダー)。そのロケ風景を撮影しているカメラマンのセルヴェ(F.テスティ)は彼女が既婚者だと知りつつも、次第に愛するようになる。そして、女優としての自信を喪失したナディーヌに大役を与えるため、セルヴェは裏契約を結ぶが、そのために彼は闇社会から大金を借りることになる。2人を待ち受ける悲劇的な結末 ― その時、皮肉にもナディーヌが口にした言葉は・・・。
本作品はパリで大ヒットし、ズラウスキーがヨーロッパで評価されるきっかけになった(後にフランスで、映画作家としてスムーズに活動再開できたのは本作の成功があったからだ)。
ズラウスキーはこの成功に意気揚々と祖国に戻るが、そこで彼を待ち受けていたものは・・・。
【1977−1987】 『シルバー・グローブ ―銀の惑星―』〔日本未公開・ビデオ発売のみ〕
ズラウスキーの大叔父にあたる作家イェジー・ズラウスキーの「月・三部作」(あのスタニスワフ・レムが影響を受け“SF作家になるきっかけとなった”といわれる小説だ)の第一部と第二部を中心に映像化した壮大なSF。宇宙飛行士たちが未知の惑星に不時着し、安住の地を求める旅路と、その子孫の繁栄(?)を描いた年代記。
全てを失った宇宙飛行士たちによる、文明の再現。生命(第2世代)の誕生、コミュニティーの構築、宗教の黎明−豊穣の女神−稲作−文明の勃興、新大陸の発見、シェルン(異民族の怪物)の襲撃・・・明らかにこれは、ズラウスキー一族による創世記への挑戦だ。そしてそのイメージは、キリスト教が道徳や倫理をもたらす前にこの世を支配していた、荒々しい生存本能の塊 ― 野蛮な原初的生命力とアヴァンギャルドの融合である。
ホドロフスキーやパゾリーニ、D.リンチの映画を濃縮したような、前衛と原始が交じり合ったようなアート感覚。
ズラウスキーは黒澤明のファンで、「蜘蛛巣城」で山田五十鈴が血の幻影に怯えるシーンを、自ら再現できるほどだというが、カブキのような奇抜なメイクで、見たこともないようなファンタスティックな形の髷やフンドシといった、日本文化を意識したようなビジュアルも登場する。
そして、鬼気迫る、取り憑かれたような演出はここでも健在。めまぐるしい手持ちカメラ、這いずり回り、のた打ち回り、狂ったように果てなき自問自答を繰り広げる登場人物たち。そして、どうやら人間の自己投影、とおぼしき怪物シェルンの正体・・・SFといいつつ、物語はエンターテイメントではなく、ひたすら思索の迷宮を彷徨い続ける。「スターウォーズ」が公開された年に、東欧の片隅で人知れずこのような凄まじいSFが製作されていた事は非常に興味深いのだが・・・。
狂信的ともいえる映画制作への没入、超過する膨大な制作費、宗教や文明への、怖れ知らずな挑戦・・・、ポーランド文化庁副長官と映画省次官が恐れたのは何だったのか―「製作中止」を決定。ズラウスキーは、2度に亘って煮え湯を飲まされる事となった。
傷心のズラウスキーは映画製作の自由を求め、故国を捨てて渡仏。以降、フランスで映画活動を続けていたが、製作中止令から10年後、民主化の波も手伝ってか、ポーランド政府はようやく態度を軟化、製作再開の許可を出す。しかし、衣装や小道具のほとんどは破棄され、俳優は歳をとり、10年の歳月を経ての撮影再開は事実上不可能だった。
ズラウスキーはカメラを手にポーランドを駆け巡り、街並みや人々の顔、風景などを撮影。製作中断で未撮だった本編の5分の1を、現代の街や人々の映像と自らのナレーションで補完し、強引に完成させた。
映画のラストでは、製作が中止された経緯と、命令に反して衣装の一部を家に隠していたスタッフ達への感謝の言葉で綴られる。やがて、ショーウィンドウに映る一人の男 ― 「私の名はアンジェイ・ズラウスキー、『シルバー・グローブ』の監督だ」そして彼は、逃げるように走り去っていく・・・。
中断してしまった映画を、こうした方法で完成させたものとしては、同ポーランドのアンジェイ・ムンクの「パサジェルカ」がある。これは監督が撮影中に亡くなったため、友人達が写真とナレーションで補完したものだ。ズラウスキーが「シルバー・グローブ」を似た手法で完成させた理由は、単純なものではないと思う。映画製作を滅茶苦茶にしたポーランド政府への怒りもあったと思うが、一方で処女作「夜の第三部分」で賞の名に冠された、アンジェイ・ムンク監督へのオマージュでもあったのではないかと、筆者は密かに思っている。
ズラウスキーの映画には、陶酔に似た何かがある。それは決して心地の良い陶酔ではなく、肌の下に潜り込み、精神の奥深くを、いやおうなしにかきまわす・・・いわばドラッグの様なトリップ感、だろうか。筆者のように、その狂気にシンクロする人間は魅入ってしまうのだが、理解できない人には、とほうもなく苦痛で不愉快、そして意味不明に感じるようだ。
ズラウスキー自身は戦時中に生まれたため、戦争の記憶はない。父が賢く立ち回ったため強制収容所に入れられる事もなく、少年時代はパリで暮らしていた事もあり、ことさら不幸な人生を送ってきたようには思えない(もちろん詳しい事は判らないが)。故に、デビューから一貫して彼の映画の中に存在する強迫観念めいた自己探求や、狂気の正体は第三者から視ると謎、である。「私の映画は、私自身の苦悩についてのもので、女性(のキャラクター?)は、それを描くための手段である」といった発言はあるのだが、若い頃から女性関係に悩まされていたのだろうか。それはズラウスキー本人にしか解らない事、である。
インターネット時代に突入し、一般にあまり知られていないようなカルトな監督も、在野の凄い研究家たちがHPやブログなどで紹介するようになったが、なぜかズラウスキーに関しては、これといったものが存在せず、ウィキペディアですら貧弱な情報しか載っていない(本レビュー初掲載時の2011年時点での話状況)。しかも情報や表現があいまいである。「夜の第三部分」で例えると、シラミに血を吸わせるのを「人体実験」と表現している資料ばかりで、何の実験かよく判らない。それは実験というよりは、当時猛威をふるってナチス・ドイツを悩ませていた発疹チフスのワクチンをつくるためのものだったのだ。― そうした意味も含め、ズラウスキー作品について知りたい、と考えている人の役に立てるレビューが書ければと思い、このような超長文になってしまった(掲載されるかどうか、不安になってきた)。
ズラウスキーに関しては情報があまりにも乏しく、中には正確ではない表現もあるかもしれないが、単なるコピペではなく、資料を照らし合わせて検証し、判断しながらの記述であることは理解して頂きたい。ズラウスキー自身のインタビュー映像や、ヨーロッパ映画史に詳しく、ズラウスキーにもインタビューをしているDaniel Bird氏の著述などを参考にしているので、甚だしく間違ったものはない、とは思う。
このレビューが、まだ国内でソフト化されていない初期作品がDVD化されるきっかけになれば、これに勝る幸せはない。フランス時代でも、’89年に「ボリス・ゴドゥノフ」を撮っているという情報がある。かなり忠実にオペラ形式で製作された映画らしいが、相変わらずスキャンダラスな内容で物議をかもしたらしい(苦笑)しかし、ズラウスキーのボリス・ゴドゥノフ!観たいものだ。
ソフト会社の担当者の方々の映画愛と、たゆまぬ努力に期待したい。
追記:ズラウスキー初期作品、を謳いながら、ポーランドというキーワードに囚われて「L'important c'est d'aimer」をうっかり抜かしてしまうという失態に気づいてしまった。よって第3版は大幅改稿、一本映画を追加した(これがプラスワン、の意)。今後もズラウスキーの公式(公認?)サイトなどを参照しつつ、追って追加情報、間違いの修正なども随時していく予定。また、色々と調べているうちに「ポゼッション」について発見した事があるので、ズラウスキー・クロニクル#2として「ポゼッション」のページにレビューを書きました。実はほとんど私小説、と思しき作品だったのである・・・!?
追記2:2013年11月から12月にかけて、「ポーランド映画祭2013」が東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催され、実に18年ぶりに『夜の第三部分』が日本で上映された。会場はほぼ満席状態で、ズラウスキーが決して忘れられていない事を証明し、感無量の思いだった。
筆者が本レビューで叫んだことがきっかけになったかどうかは判らないが、最近国内でもズラウスキー再評価を巡る状況は、非常に地味ながらも少しずつ改善を見せている。ウィキペディアは控えめな文章量ながらも、ズラウスキーの経歴やフィルモグラフィーが再編集され詳しく、正確な記述になった(マウゴジャータや息子クサヴェリについて、またフィルモグラフィは『大切なのは愛すること』や『ボリス・ゴドゥノフ』が加わった)。そして、『80年代悪趣味ビデオ学の逆襲』(2013年、洋泉社・刊)では、『シルバー・グローブ』に関して、本稿を遥かに超える素晴らしい記事が船積寛泰氏によって書かれ、久々にプロの仕事の底力に唸らされた。これまた感無量。大学生が書いたとおぼしき、ズラウスキーに関する論文もネット上で読むことができるようになった。ただ、日本でソフト化された映画に留まる内容なのはやや残念と言わざるを得ない。
本レビューを最初に書いた時は、発疹チフスワクチンの開発がどのように行われていたか、ネットで調べてもどこにもなかったが、「ポーランド映画祭2013」のパンフに具体的に記述されていたので、それを参考に、本稿でもあいまいだった部分を弱冠修正した。
『夜の第三部分』『悪魔』ほか作品の、日本でのソフト化を願いつつ −
【最終更新日:2013年12/12・第4版】
参考資料:「ポーランド映画史」マレク・ハルトフ著/「夜の第三部分」輸入版DVD(発売元Second Run DVD・PAL)収録のズラウスキーインタビュー、Daniel Bird氏によるライナーノーツ/「私生活のない女」パンフ(ズラウスキーの経歴に関しては、ここに掲載されているものが一番詳しい)/「悪魔」日本公開時の手作りパンフ(制作者に感謝!今となっては大変貴重な資料です)/ズラウスキー公式サイト、及び国内外の関連サイト/そして・・・ここに新たに「ポーランド映画祭2013」パンフレットと「80年代悪趣味ビデオ学の逆襲」を追加したい。
尚、映画の年代については、資料によってまちまちなので基本的にズラウスキー公式サイトの数字を採択しています。