群棲 (講談社文芸文庫)
本作は谷崎賞受賞の黒井千次氏の代表作とされている。1984年発表だから、もう30年近い歳月が経っている。確かに80年代初期における時代の空気を感じさせる作品だ。
都会の近郊住宅地に住む向こう二軒片隣の四家庭を舞台として、各家庭の日常の中に潜む閉塞感が描かれている。全12章からなる作品であるが、ふつうの長編小説とは異なり、各章ごとに四家庭のうちのいずれかの家庭に焦点を当て、章が変わるごとに話題が変わるので各章が独立した短編のようでもある。しかし、全編を通じて3回乃至は5回は登場する各家庭の話題にはつながりがあり、近隣家庭の様子が外側から描かれる事もあるので、結局は各章が前に描かれた話題との関連性を持つ仕組みになっている。連作短編集のようでありながら各章がつながり合い補完し合いながら、同じ一角に住む四家庭の各人の生き様、<群棲>のさまを全編にわたって描いているのだが、各家庭、いやすべての登場人物は所詮、お互いに孤立しており、いかにも現代的な個人主義的な営みの中に終始している。年寄りも、夫婦も、若い息子や、子供でさえも。
各章では人々の日常生活の中に起きるちょっとした異変を通じて、現代人の閉塞、行き場のない孤独が浮き彫りにされている。とりわけ、妻たちの鬱屈した心理がよく捉えられている。各夫婦は高齢であるほど旧来の夫唱婦随的な残影を引きずっているが、いずれの妻(嫁・母でもあるが)も、満たされる事のない一女性としての自我を持てあましている姿が印象的だ。特に四家庭で一番若い木内家の夫婦などは戦後民主主義的・個人主義的な価値観に最も強く支配されているからでもあろう、すでに決定的な破綻に達してさえいる。各家庭の姿は様々であるが、多かれ少なかれ妻たちの閉塞感は、夫や息子娘たちにも感染している。
ここには強烈なドラマも鮮やかなストーリー展開も決定的な悲劇もないが、家庭崩壊が進行し希望的な未来を見出す事のできない病める現代人の救いがたさが描かれていると言ってよい。
よりによって、この四家庭は、いずれも鬱屈した心を抱えた人たちばかりが互いに集まってしまったようにも見える。世間は広いんだから、みながみな、例外なく閉塞感に息詰まっているわけでもあるまいが、作者は現代人のやり場のない閉塞感と孤独を象徴的に描いて見せたかったのだろう。
戦後30年以上経て高度成長時代を迎えたものの、人々の心は必ずしも満たされる事なく、閉塞と孤独の深みにはまり込んでいる、そういう時代だったのだ、バブル崩壊前の日本は。
そして、この傾向は今もさほど変わらず、むしろ、さらにひどくなっている。
だが、救いは本当にないのか?いや、そんなことはない。救いがたさをもたらしているのは、自分自身のはずである。
そういうところまで筆が届いていれば、本作はもっと面白かっただろう。
都会の近郊住宅地に住む向こう二軒片隣の四家庭を舞台として、各家庭の日常の中に潜む閉塞感が描かれている。全12章からなる作品であるが、ふつうの長編小説とは異なり、各章ごとに四家庭のうちのいずれかの家庭に焦点を当て、章が変わるごとに話題が変わるので各章が独立した短編のようでもある。しかし、全編を通じて3回乃至は5回は登場する各家庭の話題にはつながりがあり、近隣家庭の様子が外側から描かれる事もあるので、結局は各章が前に描かれた話題との関連性を持つ仕組みになっている。連作短編集のようでありながら各章がつながり合い補完し合いながら、同じ一角に住む四家庭の各人の生き様、<群棲>のさまを全編にわたって描いているのだが、各家庭、いやすべての登場人物は所詮、お互いに孤立しており、いかにも現代的な個人主義的な営みの中に終始している。年寄りも、夫婦も、若い息子や、子供でさえも。
各章では人々の日常生活の中に起きるちょっとした異変を通じて、現代人の閉塞、行き場のない孤独が浮き彫りにされている。とりわけ、妻たちの鬱屈した心理がよく捉えられている。各夫婦は高齢であるほど旧来の夫唱婦随的な残影を引きずっているが、いずれの妻(嫁・母でもあるが)も、満たされる事のない一女性としての自我を持てあましている姿が印象的だ。特に四家庭で一番若い木内家の夫婦などは戦後民主主義的・個人主義的な価値観に最も強く支配されているからでもあろう、すでに決定的な破綻に達してさえいる。各家庭の姿は様々であるが、多かれ少なかれ妻たちの閉塞感は、夫や息子娘たちにも感染している。
ここには強烈なドラマも鮮やかなストーリー展開も決定的な悲劇もないが、家庭崩壊が進行し希望的な未来を見出す事のできない病める現代人の救いがたさが描かれていると言ってよい。
よりによって、この四家庭は、いずれも鬱屈した心を抱えた人たちばかりが互いに集まってしまったようにも見える。世間は広いんだから、みながみな、例外なく閉塞感に息詰まっているわけでもあるまいが、作者は現代人のやり場のない閉塞感と孤独を象徴的に描いて見せたかったのだろう。
戦後30年以上経て高度成長時代を迎えたものの、人々の心は必ずしも満たされる事なく、閉塞と孤独の深みにはまり込んでいる、そういう時代だったのだ、バブル崩壊前の日本は。
そして、この傾向は今もさほど変わらず、むしろ、さらにひどくなっている。
だが、救いは本当にないのか?いや、そんなことはない。救いがたさをもたらしているのは、自分自身のはずである。
そういうところまで筆が届いていれば、本作はもっと面白かっただろう。
春の道標 (新潮文庫)
新制高校という言葉が耳新しかった頃。安保を巡る政治の季節を眼の隅に入れながら、文芸サークル「夜光虫」で仲間と詩作も試みる高校二年生の倉沢明史。彼には、長く文通を続けている一つ上の幼馴染、見砂慶子がいた。だが、ある時、慶子のほうからそれ以上のものを求める手紙が来る。そこに慶子自身によるエスカレーションを感じた明史の心は徐々に慶子を離れていく。そのうち、通学途上で出会う1人の少女の存在に明史は気が付き始める。その中学生、染野棗(なつめ)に、明史は加速度を増して惹かれていく。
誰かを好きになることで、己と世界が変わることを体験し、そのひとを失うことで、己と世界のすべてもまた失しなわれてしまうことを識る。その、青春のまばゆいばかりの光と翳。だれの人生にも一瞬訪れるだろう輝ける日々、そして絶望。
それを思い出として持つ人も、またその予感を感じる人にも、一度手にして欲しい傑作。
誰かを好きになることで、己と世界が変わることを体験し、そのひとを失うことで、己と世界のすべてもまた失しなわれてしまうことを識る。その、青春のまばゆいばかりの光と翳。だれの人生にも一瞬訪れるだろう輝ける日々、そして絶望。
それを思い出として持つ人も、またその予感を感じる人にも、一度手にして欲しい傑作。
働くということ -実社会との出会い- (講談社現代新書)
本書は、著者にとって「企業で働くとはどのようなことであったか」を、体験に基づいて記述したものである。個人的な経験などを基礎にした記述が主体であるため、読みやすいし、現代の若者にも理解し易いであろう。しかし、本書に書かれていることは、個別の事例であって、一般論ではない。著者にとっては、一般的な理論に近いものであろうが、あくまで個人的な意見に過ぎない。本書の内容をマニュアルのように理解することは、誤りを生じさせる原因になる。著者が生きて、働いていた時代に、どのような経験があったかを、個人の物語や説明として書かれたものであり、それは、若者の父親がどのようにして就職し、どのような仕事に就き、どのような人々と触れ合い、何を学んできたかを聴くことと似ている。そのような話は、参考にはなるが、自分が生きる道を示してはいない。本書を、就職対策本として読む学生諸君は、自分がどう生きるべきかの道を、自ら考えるきっかけを与えてくれる本であると考えるのが妥当であろう。事例が示されているので、自分だったらどのような理由に基づいて、どう考え、行動すべきかの一般的な理論を整理する必要がある。そのためには、労働についてもう少し深く掘り下げた書籍を読む必要があろう。