チェルノブイリの森―事故後20年の自然誌
チェルノブイリ原子力発電所事故で放射能汚染された地域の現状のレポート。著者は現状の評価に大変戸惑っている。
汚染地域の放射性物質の濃度は短寿命の核種の消滅で減っているものの、主としてSr(ストロンチウム)90(半減期28.8年)Ce(セシウム)137(半減期30.0年)等の比較的長寿命の核種は今後数百年に渡り汚染地域に残り、環境基準以上の被爆を生物に与え続ける。一方、チェルノブイリの汚染地域は、人類の関与が無くなった結果、豊かな自然が回復して、よほど注意深く見ないと汚染の影響を見いだすことが出来ない。政府の制止を無視して住み続ける人々にも、影響を見つけることは難しい。そもそも放射能汚染が原因での健康被害も、初期のI(ヨウ素)131(半減期8.04日)による甲状腺障害(これはヨウ素剤の適切な配布で防げた)以外は、明白には見えない。
この、汚染防除の難しさと、放射能による自然と人類への障害の少なさと、汚染が図らずももたらした自然の回復の間で著者の心は揺れ動く。レポートはウクライナとベラルーシの汚染地域の様々な場所を訪れ、防除の難しさと回復した自然の美しさを書くことの繰り返しとなっている。同じテーマの変奏曲が延々とあって、日本人には少々油濃い。
とりあえず、読者は著者と一緒に戸惑うしかないのだろう。戸惑いながら、原子炉事故に伴う放射能汚染の特性が頭に残ればいいのではないだろうか。気をつけないといけない核種は、I131,Sr90,Ce137。ヨウ素は半減期が8日と短いので事故直後が勝負。すぐに非放射性のヨウ素を摂取して、放射性のものが入って来ても甲状腺に滞留しないようにする。Srはカルシウムとして挙動するので、骨に入れば比較的長い時間滞留する。γ線を出さないので、どの程度体内に残留しているかの評価が難しい。Ceはカリウムとして挙動する。体内の滞留機関は比較的短いので、摂取しない環境に戻れば数ヶ月で体内から無くなる。γ線を出すので、残留量を測定するのは簡単である。などの事実を知ることが出来た。断片的な知識が体系化されたのは良かったと思う。
私も著者と一緒に戸惑っているわけだが、一つ言えることは、原子力も絶対悪ではなくて他の技術とのバランスで眺めるものなのだろう。「チェルノブイリの森」は原子力をむやみに恐れ、放射能の環境基準を必要以上に厳しく設定することで出現した不思議な自然であると、私には思える。自然は人類が考えるより懐が深い。
訳者のあとがきを見ると、原著にはあまりに図や写真が少なかったので補充したとある。私にはそれでも全然足りないと感じた。西洋人の著書はどれも図版類が少ないのは前から気になっていた。西洋人では書物に図が入ると、子供向けに見られるのだろうか。こちらも不思議だ。
プルトニウムの恐怖 (岩波新書 黄版 173)
この著書の本題は後半に詳述されているプルトニウムについてだが、原子力発電とその事故の歴史、核燃料サイクルの仕組みと高速増殖炉「もんじゅ」のメカニズムも分かり易く説明されている。冷却材として使われる液体ナトリウムの持つ腐食性、水と違ってナトリウム自体が原子炉内で放射性物質に変質すること、水と接触すれば爆発的に反応することなど解決すべき多くの問題を抱えていることも理解できる。国はそうした課題の解決を先送りにしたまま操業を試みたが、幸か不幸か落下事故を起こして以来稼動していない。「もんじゅ」がお釈迦になったとは言い得て妙だが、これまでに掛かった莫大な費用については誰も責任を問われていないのが実情だ。更に大きな問題は後に残る高濃度の放射性廃棄物で、それは子々孫々数万年に亘って管理していかなければならないという。しかしそんな遠大な計画をかつて日本という国が一度でも遂行したという歴史があるだろうか。そして将来誰が自分達にはあずかり知らない負の遺産を快く引き受けるだろうか。
人類には確かに幾つかの選択肢が与えられている。どの道を選ぶかは、それぞれの時代に生きる者が決めてきたが、プルトニウムのような将来何世代にも亘る危険性を持つ物質に関しては、現代に生きる我々のみが決定権を持っていると判断するのは思い上がりではないのか。高木氏は「気付かぬ間に押し付けられる選択ほど不幸なものはない」と書いている。また使い捨ての文明を発展させてきた人類が、使い捨てにできない物質を生み出してしまったことに本質的な困難があるとしている。最後の章で彼が強調していることは、今我々が考えなければならない事として、いたずらに大量のエネルギーを生み出したり、消費したりすることではなく、いかにして地球的規模の釣り合いのとれた生活を選択するかということに尽きるだろう。その上で原発が不可欠であるか否かの判断は、我々一人一人の良識にかかっていると思う。